田蓑神社|西淀川区佃|宝くじ高額当選を目論んでいる方必見!
田蓑神社は、大阪市西淀川区佃に鎮座する神社で、古くは神功皇后による三韓征伐の時代まで遡るという大変な古社である。
神功皇后由来の住吉大社との関係も深く、住吉大社の御解除(みはらえ)神事において重要な役割を果たしていたという説もある。
また、佃煮で有名な東京都中央区の佃は、ここ佃の漁師が移り住んだことに由来する。
昨今、宝くじ高額当選のパワースポットとしてメディアに取り上げられ、話題にのぼった時期もあったが、それも落ち着いてきたようだ。
田蓑神社について
田蓑神社の創建
社伝によると、、、
三韓征伐から帰ってきた神功皇后が、難波の田蓑嶋に立ち寄った際、当地の漁師が「白魚」を献上。そして、その漁師が奉られたのが始まりとする。
それから数百年後。田蓑島を開拓することになったとき、その漁師が出現して曰く、、、
「神功皇后の御船の鬼板を伝え守って数百年、この神宝を安置して住吉大明神をお奉りせよ」と。
869年、そのお告げの通り、住吉三神に加えて神功皇后も奉斎し、田蓑嶋神社とした。(田蓑嶋姫神社とも)
その後、住吉神社、住吉明神、住吉大明神などと社名が変わり、明治の神仏分離を受けて「田蓑神社」と改名し現在に至るという。
三韓征伐ということは、西暦200年頃のこと。
しかし、最初は漁師が祀られていたとは、、、
田蓑嶋姫神社
田蓑嶋姫神社とも称していたという、その田蓑嶋姫神社は、住吉大神の子神=末社なのだが、住吉大社の末社に漁師が祀られていたというのは、あまりにもおかしい。
当初の田蓑嶋神社には田蓑嶋姫が祀られていたのでは?とする説もある。
次の開口神社の由来を見るにつけ、最初に祀られていたのが漁師ではなく田蓑嶋姫であってほしいと思うのは、私だけであろうか。
住吉大社の御解除(みはらえ)神事
毎年、難波の南・北両端の境となる聖地で行われたと伝わる、重要な浄め祓いの神事。
- 南端の聖地が「開口水門姫神社」で、6月の御解除神事が行われた。
- 北端の聖地が「田蓑嶋姫神社」で、9月の御解除神事が行われた。
開口水門姫神社に祀られている「開口水門姫神(開速口姫神)」も、田蓑嶋姫神社と同じく住吉大神の子神(末社)とされている。
さらに、開口水門神社の創建伝承にも漁師が登場し「赤目魚=鯛」を献上したとされる。
このように、南北の聖地の由来には、いずれも漁師が登場し、それぞれ赤目魚と白魚(紅白の対をなす)を神功皇后に献上。
しかし、開口水門神社に祀られたのは、漁師ではなく、航海の神、潮流を司る神である「塩土老翁命」(しおつちおじのみこと)が祀られた。
田蓑神社の祭神
なんだかんだと言いながらも、現在の祭神は漁師でも住吉大神の子神でもなく、住吉四神そのもの、すなわち底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命・神功皇后の4柱だ。
住吉三神(筒之男三神)
伊邪那岐命が穢れた体を清めるため、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で「禊祓」をしたときに現れた神々。
流れの下層・中層・上層のそれぞれで現れた。
- 底筒之男神(そこづつのおのみこと)>>>流れの下層で現れた神
- 中筒之男神(なかづつのおのみこと)>>>流れの中層で現れた神
- 表筒之男神(うわづつのおのみこと)>>>流れの上層で現れた神
神功皇后
14代仲哀天皇の皇后。仲哀天皇が住吉三神による「朝鮮半島を攻めるべし」との託宣を軽視したため、神力により崩御。
その代わりとして神功皇后が、住吉三神の守護を受けて三韓征伐を行うことになる。
勝利し凱旋後、立ち寄った港々に住吉三神を祀り、皇后の死後は住吉三神に加えて4柱目の住吉神として祀られるようになった。
ちなみに、三韓征伐に出発する前に身籠っており、腹に石を抱いて出産を遅らせ出陣。凱旋後に見事15代応仁天皇を出産したという。
田蓑神社のご利益
筒之男三神のご利益として期待されるのは「祓い」、そして「航海安全」。また、草を敷かずに苗代をつくる方法を伝授したという伝承から「五穀豊穣」。
現在に転じると、厄払い、商業発展、貿易振興、交通安全となろう。
神功皇后のご利益は、何と言っても「安産」である。
金運のパワースポット
こちら田蓑神社は、「宝くじ高額当選が叶う!パワースポット!」ということでテレビで紹介され、一時的に評判となったらしい。
どうやら、境内の狛犬の足を触って当選を祈願すると叶うということのようだ。
しかし、境内にはいくつかの狛犬があり、どれかわからない。
拝殿前に設置されている新しい狛犬で「吽」(口を閉じている)の狛犬だろうという説が多いが、手あたり次第に触っておいた。。。
田蓑神社 参拝記録
西淀川区佃は、神崎川が大阪湾に流れ込む少し手前にある中洲。淀川(大川)における中之島のようなイメージである。
佃島の周辺には、姫島・御幣島・歌島・加島・初島・梶ケ島・竹島など、島と付く地名が多い。
かつて難波には、淀川と古代大和川から流入する大量の土砂が堆積し、多くの川筋が流路を変えながら流れたくっていたようだ。よって、多くの中洲が形成され、あたかもたくさんの島が浮かんでいるように見えたという。
これらの多くの島を「八十嶋」と呼んだ。佃島も八十嶋の一つである。
田蓑神社の社頭
南西向きの正面玄関となる。珍しい。
神橋から続く内参道は真っすぐ本殿へと伸びている。
案内板によると、
1511年に建てられたもので、この年代の鳥居としては整っている。同類の鳥居は天王寺区の四天王寺に一基あるようだ。
とのこと。
阪神大震災によって町全体に被害を受け、神社も大きなな被害を受けた。その記憶を長く後世に残すため、和歌の碑とともに、倒壊した標柱をここに建立したという。
しっかりと、手口を漱いで清めよう。
拝殿
唐破風や釣り灯篭などのない、シンプルで威厳のある拝殿である。
向かって左の狛犬が、噂の狛犬だ。宝くじ高額当選!
足をなでなでしてから、二拝二拍手一拝。
拝殿の向こうに朱色の本殿がちらっと見える。
本殿
住吉造風の神殿が4基。住吉四神が一柱ずつ祀られている。
画像では確認できないが、一番手前の神殿の千木が「内削ぎ」であるからして、女神すなわち神功皇后が祀られていることを示している。
境内社
本殿の左手に、いくつかの末社が鎮座する。
東照宮と金刀比羅宮
こちらには、徳川家康公すなわち東照大権現と、金刀比羅宮すなわち大物主神が祀られている。
金刀比羅宮に祀られるタイプの大物主神も、住吉大神と同じく航海安全の神である。ここは漁師の村だっただろうから合点がいく。
しかし、田蓑神社になぜ東照宮(家康公)が?
大阪には東照宮は似合わない。よほどのことでもない限り、大阪人は東照大権現は祀らないのである。(あっ!これは個人的な思いでございます)
調べると、よっぽどのことがあった。
家康と佃の物語
徳川家康公と田蓑島(佃島)
家康公が豊臣家に臣従した1586年のこと。
上洛のついでに住吉大社を参拝し、多田神社に向かう途中、神崎川で立ち往生となった。そこに、田蓑島の漁民が神崎川の渡し船を提供したり、白魚を献上したりして、家康は大層感激したという。
時は流れて大阪の陣の前年の1613年のこと。
先の神崎川での功によって、田蓑島の漁民たちに
「浅草川と稲毛川以外なら、全国どこで漁をしてもいい」
という権利が与えられ、かつ、江戸城に白魚を献上する役割を与えられた。
幕府から「全国どこにでも行ってよい。そして白魚献上のために入城を許す。」というお墨付きをもらったわけだ。
これは何を意味するのかというと、、、
田蓑島の漁民は幕府方の隠密となり、畿内を中心とする豊臣方の内情を探る任務が与えられ、報告のため江戸城を訪問するための方便である
と解釈できるのだ。
家康公の死後、1633年に、田蓑神社の境内に東照宮を創建した。
佃島の漁民、江戸へ移住
このようなことで、3代将軍家光の頃の1644年、
佃村(田蓑から名称変更)の漁民たちが江戸に移住、引き続き献魚の任にあたることになる。
移住当初は安藤対馬守の屋敷に仮住まいしていたが、武家屋敷に武士以外が棲むことを禁止されたため、幕府より隅田川河口の干潟を与えられ、自分たちで埋め立て工事を行って人工島を造成したという。
その人工島を、故郷にちなんで「佃島」と名付けた。これが現在の東京都中央区佃であり、そこに住吉神社を創建したという。
七重之社
七柱の神々が合わせ祀られているによって「七重之社」という。
天照皇大神を筆頭に、
事代主大神、猿田彦命、大國主大神、應神天皇、少彦名大神、菅原道眞が祀られている。
近隣神社の統廃合による合祀だろうか。
稲生社
宇賀御魂神を祀る、お稲荷さんである。
ここまでは念のため、出くわした狛犬さんたちの足はすべて触ってきたのだが、こちらの狐さんの足は触らずにおいた。
不思議な鳥居
鳥居だ。少し小振りな鳥居だ。鳥居の先には何もない。民家の柵があるのみ。
思いをめぐらした末の結論は、昔は、この民家は無く、ここに至る参道があったのだろうということ。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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