櫻宮(桜宮神社)|大阪|アクセス・駐車場・見どころを紹介!
櫻宮は大阪市都島区中野、大川(旧淀川)の堤防に鎮座する神社。櫻宮と書いて「さくらのみや」と読み、このあたりの地名「桜の宮」も、当社の社名が由来だという。
大川の堤防はたくさんの桜が咲き乱れる絶好の花見スポット。多くの花見客で賑わう。対岸には帝国ホテルが聳え、その左には旧桜宮公会堂や泉布観そして造幣局といった明治初期の洋館が建ち、文化的側面も顔をのぞかせる面白いエリアだ。
本記事では、そんな櫻宮の歴史を紐解きながら、その魅力をお伝えできればと思う。
櫻宮について
櫻宮の概要
- 所在地 大阪府大阪市都島区中野町1丁目12−32
- 電話番号 06-6351-6607
- 主祭神 天照皇大神・八幡大神・仁徳天皇
- 社格 郷社
- 公式HP https://www.osaka-jinjacho.jp/funai_jinja/dai4shibu/miyakojima-ku/04016sakuranomiya.html
櫻宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- JR環状線桜ノ宮駅 徒歩5分
- JR東西線大阪城北詰 徒歩5分
車でのアクセス・駐車場
- アクセスは容易
- 駐車場あり(境内社務所前)
櫻宮の祭神
現在、主祭神に天照皇大神を祀り、八幡大神と仁徳天皇を配祀するが、もともとは天照皇大神の一柱だった。
天照皇大神
日本の神社のトップに君臨する伊勢の神宮内宮の主祭神「天照皇大神」は、記紀には天照大御神や天照大神として登場し、さらには大日孁貴という別名を持つ。
神名や”天の岩戸神話”からもわかるように太陽の神とされ、父の伊弉諾尊から高天原の統治を任された天上の女神である。
八幡大神
八幡大神は、八幡宮に祀られる神。神仏習合時代には八幡大菩薩と称し一般的には15代応神天皇と習合したとされる。
天照大神と並んで応神天皇も皇祖神として祀られることから、応神天皇が初代の天皇なのだとか、応神天皇は朝鮮半島から来た渡来人で、別の皇統がここから始まったのだ、などという説が飛び出すが、さてどうなのだろう。
仁徳天皇
応神天皇の皇子で、16代の天皇。難波の高津宮で執政したこと、免税で庶民の暮らしを立て直したこと、茨田堤や堀江の造営で大阪平野を水害から守るなどの善政の数々を讃えて「聖帝」と称された、大阪では人気の天皇である。
櫻宮の創建・歴史
度重なる火災により、社に伝わる旧記は無い。よって創建年代などは不明である。
大阪府全誌によると、、、
櫻宮は、もともとは東成郡野田村字宮田に鎮座していて、そこが創建の地だと伝わる。
野田村字宮田は現在の桜小橋(京橋駅の北東)あたりだそうだ。大阪城の北に位置し、桜が有名で、豊臣氏が桜が咲く下で流鏑馬を行ったと伝わっている。
元和6年(1620年)の旧大和川の洪水により社殿が流出し、現鎮座地の付近に漂着したので社殿を造営して再建した。
漂着した場所は今の桜ノ宮駅の直下だと由緒書にある。よって、桜小橋から桜ノ宮駅まで約1.5Km流されたということになる。わりと現実味のある話だと感ずる。
しかし、そこも低地だったため、宝暦6年(1756年)に現鎮座地に遷宮した。
その場所が当地なのだが「摂津中野村厨」があり伊勢の神宮に関連する場所だというから、天照皇大神が祀られたのは、この時なのだろうか。。。
以上が、櫻宮の創建伝承となる。
明治40年、北野兎我野町の無格社「若宮八幡宮」( 応神天皇・仁徳天皇・菟道稚郎子命 )を合祀
明治41年、新喜多字島崎の村社「新喜多神社」(仁徳天皇)を合祀
明治42年、毛馬字溝口の村社「八幡大神宮」(応神天皇)を合祀
明治42年、善源寺町字八幡の産土神社(応神天皇) を合祀
これが、八幡大神と仁徳天皇を配祀する由縁である。
ちなみに、
櫻宮の社名は、元鎮座地である宮田(桜小橋)が桜の名所だったことから付けられた社名。
現在地に遷座してからも櫻宮を号していたことから、当地にも桜を植えようということで植樹されたのが、大川沿いの桜並木の始まりだという。
今では、大川堤防沿いは大阪市内随一の桜の名所となっている。
櫻宮のご利益
ご利益は、開運招福、良縁・縁結び、厄災除けだそうだ。
櫻宮 参拝記録
大阪に住む男にとっては、桜の宮とはラブホテル街を指す名詞なのである。(お住まいの方には大変失礼は話であるが、、、)
当社も三方をラブホテルに囲まれるという実にシュールな立地となっている。付き合いの浅いカップルで参拝する場合は注意が必要だ。
駐車場はある。あるが、境内に入って右側の小スペースに駐車することになる。なんとなく気が引けるので、神社の北隣の隣にあるパーキングに駐車した。
一の鳥居
ここが正面玄関「一の鳥居」である。パーキングからだと川沿いに南へ150mほど歩かなければならない。面倒にも思う。
がしかし私は、一の鳥居をくぐる価値は必ずやあると信じている。がゆえに、ここから神域へ入らずばなるまい。
内参道
コンパクトにまとまった風情のある参道である。左右に植えられた樹木が目隠しとなり、ホテル街の雰囲気は完全に消し去れられている。並んだ石灯籠も江戸時代のものがあり歴史を感じる。
ご神木
手水舎のそばに聳えるご神木と櫻宮の石碑。
ご神木と勝手に言ってはいるがご神木かどうかはわからない。わからないが、妙に存在感のある木だ。
もちろん桜の木。
八柱神社と祖霊社
本殿に向かって左側に、八柱の神々を祀る社殿と、祖霊社が鎮座している。
八柱とは、
- 目神八幡大神・・・病気平癒(眼の病)
- 恵比須大神・・・商売繁盛
- 菅原大神・・・学業成就
- 玉津嶋大神・・・国土安全・身体健康
- 琴平大神・・・豊漁祈願・交通安全
- 住吉大神・・・海運安全・交通安全
- 春日大神・・・家内安全・芸事成就
- 八幡大神・・・五穀豊穣・武運長久
だそうだ。
本社拝殿
拝殿の目前に二の鳥居が配されるという、珍しい様式である。
幾度もの火災に遭ったということでコンクリート造りだ。大阪市内の神社の多くは空襲の被害に遭っているためコンクリート造りが多い。仕方のない事である。
自祓幣が置かれてあった。まずはこれで身に付いた穢れを自ら祓い清めよう。
自祓いの方法は、、、
- 自祓幣に一礼する
- 両手で祓串を取り胸の前で持つ
- まずは、左にパサっと振る
- 次に、右にパサっと振る
- もう一度、左にパサっと振る
- 胸の前に戻す
- 自祓幣をもとに収める
- 一礼する
これで祓い清められたはずだ。いよいよ参拝だ。
二拝二拍手一拝。
合祀されている神様について
大阪府全誌には、合祀された神社の由緒も記されているのでご紹介しよう。
若宮八幡神社
社記によると、、、
聖徳太子による創祇という古社。源融が太融寺を建立していたころ、庶民に目病が流行っていて、 源融 自身も眼病を患った。そこに八幡大神のお告げがあり、若宮八幡神社に祈願したところ、眼病はたちまちのうちに平癒した。よって、人々から「目神社」と尊ばれるようになった。摂津国名所図会の目神八幡神社は、当社のことである。
とのこと。
であるからして、八柱神社の筆頭である目神八幡大神も、この八幡大神のことと推察する。太融寺の南にあったか。
八幡大神宮
社記によると、、、
南都大安寺の行教和尚が宇佐神宮からの帰路に暴風雨に遭遇し淀川を航行できなくなった。毛馬村で上陸し茅屋に避難するも風雨は益々激しさを増した。そこで神籬を立てて八幡大神に懇願すると、暴風雨は次第に鎮静した。その後、和尚は無事に京へ入り、男山に八幡社を創建するに至った。里民は和尚が神籬を立てた場所に社殿を建立して八幡神を祀った。これを八幡大神宮と名付けて崇敬した。
とのこと。
男山の八幡社とは、都の守護神にして宗廟でもある石清水八幡宮のことである。
毛馬村は、淀川が旧中津川と大川に分岐する地点の左岸にあった村。大川の氾濫対策として、旧中津川の流路を利用して新淀川を開削し、直接大阪湾に流すようにした。その際、毛馬村の半分も掘削されて水没したという。
早馬稲荷神社
本殿の右側に並ぶように、早馬稲荷神社が鎮座する。
ご祭神は、早馬稲荷大神と名付けられた宇迦之御魂神であろう。
神前の供物の様子。本殿よりも、こちらの方が賑やかだ。崇敬されている様子が手に取るようにわかる。
がしかし、張られてる注意書きが大阪っぽくて面白い。
右上に、
ドロボウになるな
宮司さん、怒っている。供物を勝手に持って帰る人が多いのだろう。こまったものだ。
そして左下に、
お供えを盗むと生活保護が受けれなくなります
宮司さん、諭している。なんとも大阪らしい注意書きではないか。全国で生活保護受給率が最も高いのが大阪だそうだ。
そして右下に、
お酒やおあげさん等の供物を盗み飲み(食)するにしても、最低5日間は神様にお供えしてから拝借するように
宮司さん、諦めた? 最後には盗み飲みを容認しているではないか。「神様が飲食したあとなら」という条件付きではあるが、、、
遥拝所
早馬稲荷のそばに、遥拝所らしきものがある。どこを遥拝するものかは定かではない。
定かではないが、私がこの穴からのぞいて見えたモノと遥拝石を結んだ直線を延長すると、伊勢の夫婦岩を指すことが判った。
よって、伊勢の神宮を拝する遥拝所であろうと結論付けた。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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