須佐神社|和歌山|創建伝承が推理小説の暗号ようで面白い。有田郡唯一の名神大社。

2019年11月12日

須佐神社は、和歌山県有田市千田に鎮座する延喜式神名帳に記載ある式内社。その中でも特に霊験あらたかとされる名神大社に指定されている古社である。

海上交通の神として崇敬を集めてきただけに、鎮座地の「中雄山」は湯浅湾岸に聳え、紀伊水道そして四国まで見通せる海洋交通の要衝である。

しかし、そんな立地に鎮座しているにも関わらず、社殿から海を望むことは出来ない。それには理由があるらしい。

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須佐神社について

須佐神社の概要

  • 所在地  〒649-0313 和歌山県有田市千田1641
  • 電話番号  0737-83-0195
  • 主祭神  素戔嗚尊
  • 創建年    和銅6年
  • 社格   式内名神大社、県社
  • 公式HP   なし

須佐神社 アクセス

MAP

[map addr="〒649-0313 和歌山県有田市千田1641"]

最寄り駅

  • JRきのくに線 箕島駅 徒歩30分

駐車場

  • あり (社頭左に駐車スペースあり)

須佐神社の創建

続風土記によると、、、

奈良時代の和銅6年(713年)の10月亥の日に、吉野の西川の峰から中雄山に勧請されたのが始まりという。

吉野に西川の峰は、どこだかわかっていない。無いのかもしれない。

そして、この和銅6年10月亥日という日は、伊太祁曽神社が秋月から山東の地へ遷座したと伝わっている日と同じであるところが注目点。

さて、当初は中雄山の山頂に、海に向いて祀られていた。がしかし、紀伊水道を往来する船が「神」に恭順の意を示さないときは、「神」はその船を転覆させるというような神威を示したため、元明天皇の勅命により、海の見えない南斜面に遷座されたと伝わっている。

元明天皇の在位は707年から715年と推測される。ということは、須佐神社は勧請されて間もなく遷座したということになろう。

しかしまあ、恭順を示さないと船を沈めるとは、まるで海賊の仕業である。

須佐神社の祭神

祭神は素戔嗚尊とされている。

上古に紀伊半島に住み着いた海人族が奉じた神で、祀った場所が須佐と呼ばれていたため、そこの男神であることから「すさの男」と称されるようになったとも。

これは、スサノオの根源を表しているように聞こえるところは興味深い。

伊太祁曽神社との関係

実は、

  • 須佐神社の神戸が伊太祁曽神社の神戸の隣にあったり、
  • 須佐神社の祭りに伊太祁曽神社の神官が参加したり

と、両社は何かとつながりが深い。

祭神が親子関係であるということ以上の何かがあるのでは?

と感じるわけである。そこで、私の妄想癖が顔を出すことになる。

伊太祁曽神社はもともとは秋月に鎮座していた。

しかし、紀三井寺あたりの浜辺に鎮座していた濱宮(はまのみや)から日前大神(ひのくまのおおかみ)と国懸大神(くにかかすのおおかみ)が遷座してきたことで、秋月から追い出される格好で「山東村」へ遷座した。

国津神が天津神に追い出されたわけ。出雲の国譲りのようなことが紀国でも起こっていたと考えられる。

そして、期せずして同じ日に須佐神社が吉野の「西川」から当地に遷座してきたという。

これってもしかして、、、

トコロテン方式で須佐神社が伊太祁曽に押し出されて「山東村」から「中雄山」に遷座してきたのでは?

と考えてみた。

そこで、伊太祁曽あたりの地図を見ると、、、

「口須佐」「奥須佐」という地名があった。

「口須佐」は須佐の入り口で、「奥須佐」は須佐の奥という意味だろう。

ところが肝心の「須佐」という地名がない。

「口須佐」と「奥須佐」 隣接して、本来「須佐」という地名があったであろうその場所は「伊太祁曽」なのである。

となれば、

「伊太祁曽」は、かつては「須佐」だったのでは?

と思えてくる。

すなわち、

山東村の須佐から中雄山に遷座したのでは?

しかし、勧請元は「吉野郡の西川の峰」という。さて、これはいかに。

たしかに、吉野に西川という河川がある。
また、吉野山の奥に青根ケ峰という山があり、その三角点を西川と呼ぶ。

という事実はあるのだが、それでは面白くない。

もっと面白い事に気が付いたからだ。

山東と西川が、とても似ているということに!

分解すると、東・西・山・川!

もしかして、暗号?! 山東からの勧請とせず、西川と伝えた?
わかる人にはわかるように。。。

そこまでする意味があるの無いのかよくわからないが、妙に腑に落ちるのである。

もし、そうだとするならば、

古代、木の国は先住民族(国津神)が、肥沃な紀ノ川流域に居住し、その信仰の対象として秋月に五十猛命を、山東に須佐之男命を祀っていた。

そこへ朝廷から紀氏(天津神)が派遣され、紀ノ川流域を支配した。そして、先住民族が祀る五十猛神を山東へ追い出した。

先住民族は海人族の誇りを胸に、もう一方の奉斎神「須佐之男命」とともに、その拠点を紀の川流域から有田川流域へと移した。

農耕に適した土地が狭い有田川流域。海賊として通行する船舶から積荷を奪取し始めた。

ところが、朝廷の力は、紀ノ川流域から南下し有田川流域にまで達した。海賊行為もこれにて終わることとなる。

そして、彼らの海人族としての象徴であった須佐神社は、海から遠ざけられたのである。

というような仮説を立てたのだが、どうだろう。。。

須佐神社のご利益

古くは、漁業の神、あるいは造船のための樹木の神として崇敬を集めたという。

まるで伊太祁曽神社に祀られる五十猛命のご神徳である。さもありなんだ。

近世では、剣難除けの神。

現在は、災難除け、海上安全、交通安全のご利益があるとされている。

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須佐神社 参拝記録

須佐神社への公共交通機関によるアクセスは極めて悪い。

最寄のJR箕島駅から歩くと30分以上かかる。かと言ってバスは1時間に1本。私には耐えられない。

車で行くことをお勧めする。

箕島駅から有田川を渡り、有田湯浅線を南下する。

途中に「立神社」という魅力的な社名の神社がある。こちらにも参拝したいところだが、先を急ごう。

5分ぐらいで大きな鳥居が見えてくるだろう。

大鳥居

ここから3分程度で社頭に到着する。

社頭

「須佐神社」(千田宮)「災難除」の神様です。

と書かれた看板が駐車場の入り口。駐車場というが、ロータリーのよう。適当に駐車するといいだろう。

二の鳥居

神橋を渡ると二の鳥居である。

石垣の風情が古社の雰囲気を醸し出している。

上方を見やると、鳥居の奥に純白の神馬の像が見えるのがまた神秘的だ。

この石段の両側に、いくつかの境内社が鎮座している。

子安社

祭神は、湍津姫命(たぎつひめ)。宗像三女神の一柱。

先代旧事本紀によると、大国主命と結婚して事代主命を生んだとされる。

金比羅社

祭神は大物主命。讃岐の金刀比羅宮の主祭神で、航海安全の神とされる。

一方、奈良の大神神社の主祭神でもあり、そちらでは国家経営の神として祀られている大神である。

南龍社と湊川社

南龍社の祭神は、徳川頼宣公。徳川家康公の十男で、御三家の一つ紀州徳川家の祖である。

湊川社の祭神は、楠木正成公。南朝初代天皇の後醍醐天皇に仕え、鎌倉幕府を倒し建武の親政を実現した南朝の忠臣。

明治維新後、南北朝いずれを正統とするかという議論を経て、皇室の忠臣として神となった。戦死した場所、すなわち神戸の湊川神社に祀られる。

伊太祁曽神社遥拝所

やはり、といったところか。伊太祁曽神社の遥拝所があった。

神馬像

胴体に神紋が描かれている。これは桃。「夏桃」という家紋らしい。

伊邪那岐命がヨモツ坂で黄泉の国の軍勢に三つの桃の実投げつけた。すると黄泉の国の軍勢は消え去ったという。

このことから、桃には、邪悪なものを祓う魔除けの力があるとされている。

ここでヘアピンカーブして、さらに石段を昇る。

三の鳥居

ここをくぐると、本殿のあるエリアに到達だ。

本殿エリア

絵馬堂

大きな絵馬殿。神門の代替となっている。

絵馬殿を通り抜けると、右手に境内社がずらりと並ぶ。

境内社群

一段高い所に、祠が3基並んでいる。

手前から

  • 神光谷社・・・祭神はわからない。
  • 厳島社・・・市杵嶋姫命。
  • 住吉社・・・底筒男命、中筒男命、表筒男命。

そして、一段下に、

稲荷社と五ケ庄社が合祀されている。五ケ庄社は近隣の神社整理によって合祀された神々らしい。

鈴門

太い鈴緒が2本ぶら下がっている鈴門。よく見ると、欄間の部分にも「桃」の神紋があしらわれている。

拝殿

思わず中に入っていってしまいそうになる、開放的な拝殿である。

二拝二拍手一拝。

ご挨拶とともに、本日の商談の成功を祈る。

本殿

なかなかに大きく重厚な本殿である。さすがは名神大社である。

東方殿(皇大神宮社)

透塀の一部が開けられていて、そこから社が見えるようにしてくれている。

これが、東方殿で、天照大神、月読尊、手力雄神が祀られている。

西方殿(伊弉諾社)

こちらは見ることができなかった。本殿の西側に東方殿と対になるように鎮座していると思われる。

伊弉諾尊と伊弉冉尊が祀られているらしい。

これで、須佐神社の紹介は終了とさせていただこうと思う。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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