芝東照宮・圓山随身稲荷・芝丸山古墳|東京|
芝東照宮は東京都港区芝公園内、徳川将軍家菩提寺である増上寺の南方に位置し、東向きに鎮座する。
規模は小さいが、日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つに数えられるという。(芝東照宮による)
芝東照宮について
芝東照宮 概要
- 所在地 〒105-0011 東京都港区芝公園4丁目8−10
- 電話番号 03-3431-9658
- 主祭神 徳川家康公
- 創建年 1617年
- 社格 郷社
- 公式HP http://www.shibatoshogu.com/
芝東照宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- 都営地下鉄三田線「芝公園」徒歩2分
- 都営地下鉄大江戸線「赤羽橋」徒歩5分
- 都営地下鉄浅草線「大門」徒歩10分
- JR山手線「浜松町」徒歩13分
駐車場
- あり(無料)
芝東照宮の由来
家康公は、還暦を迎えるにあたり自身の「寿像」を彫らせ、駿府城内で自ら祭祀を行っていたらしい。その寿像が芝東照宮のご神体となっている。
家康公の遺言
元和2年(1616年)。家康公は終焉の時を迎えようとしていた。
枕元に南光坊天海・以心崇伝らを呼び寄せ、
- 自らの遺体は久能で埋葬し、
- 増上寺で法会を行い、
- 一周忌には日光に小堂をたて勧請し、関八州の鎮守とするべし
- また、京の金地院にも小堂を建てて勧請し、所司代・武家諸侯に参拝させるべし
と遺言を残したことは有名な話。
さらに、自らの「寿像は増上寺にて祀られるべし」と遺言したと、芝東照宮に伝わる。
神となった家康公
1916年家康公死去。棺は遺言の通り久能山へ送られて埋葬。そこに東照社を創建。
1917年、家康公に正一位が贈られ、東照社にも正一位が贈られ、さらに東照大権現の神名が宣下された。家康公は東照大権現という神となったのである。
さらに、東照社に宮号が宣下されたため、東照社は東照宮となる。「宮」と名乗ることができる神社は、皇祖・天皇・皇族が祭神である神社以外では極めて稀である。
さて、遺言の通り、一周忌を迎えたときは日光にも東照宮が創建されていたので、久能東照大権現と日光東照大権現が並立することとなった。
安国殿の建立
一方、寿像はというと、土井正勝の手により駿府から江戸へと大切に運ばれ、増上寺境内に御堂を建立して安置し「安国殿」と名付けた。1617年のこと。この時点を芝東照宮の創建としている。
1641年。3代家光公によって、今の場所に豪華な社殿が建立され遷座された。
芝東照宮の誕生
明治維新後、神仏分離政策により増上寺から独立し、神社であるところの「芝東照宮」となったが、昭和20年の空襲によって絢爛豪華な社殿など悉く焼失。
ご神体の寿像が持ち出されて無事だったのが不幸中の幸いである。
その後、社殿は再建された。
徳川家康公のご神徳とは、、、
家康公の思想を遺訓より学び取ると、勤勉・慎重・堪忍・自責・簡素・倹約とのこと。
このようなことを積み重ねる中で、ご利益として「成功」「勝利」「子孫繁栄」が実現できるのではないだろうか。
芝東照宮 参拝記録
増上寺の三解脱門(大きな大きな朱色の山門)から南へ歩くこと235m。
その間ずっと東京タワーが見える。
地方出身者にとって、東京タワーは大都会東京の象徴であり憧れの対象物であろう。
しかし、我々大阪人は少しく異なる。確かに憧れはあるが、決して表には出さない。そして、その憧れの中に少なからず嫉妬の感情が含まれるのだ。これが大阪人の心の内なのだ。私だけ?
社頭
東向きに口を開ける参道入り口。この参道の途中に鳥居が立つ。
この鳥居をくぐると石段がある。
石段を登った右手に有名な大銀杏が聳える。
大銀杏
家光公による社殿再建の際に植えられたという銀杏。国の天然記念物に指定されている。
社殿
二拝二拍手一拝。。。
圓山随身稲荷大明神
芝東照宮の裏手にある丸山古墳の、前方部と後円部の境目「くびれた部分」に鎮座するのが、末社となる「圓山随身稲荷大明神」である。
林に囲まれた平地で、落ち葉なども多く、遠目に見ると若干の近寄り難い雰囲気は否めない。
しかし近寄ってみると、その雰囲気は神域感によるものであることがわかる。
増上寺が日比谷から芝に遷されたとき、そこにお迎えする阿弥陀如来を桑名から江戸まで守護してこられたとされる。
だから「随身稲荷大明神」。そして、丸山古墳上に祀られたため「圓山」。つなげて「圓山随身稲荷大明神」という名称となった。と想像する。
墳丘の斜面を登り、その中腹に鎮座する祠。祠というよりは社殿か。細かい彫刻が施されている。
左右に控える神の使いであるところの「狐」は凛々しい。
祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。「ウカ=食物」を司る神である。
こちらでは、熊野神社とともに増上寺の守護神としての働きを持つと聞く。
芝丸山古墳
墳長は125mという東京都内最大の前方後円墳。5世紀中ごろの造築とされる。
このあたりを支配した氏族の首長の墓とも、初代の无邪志国造(むざしこくぞう)となった「兄多毛比命」の墓という説などもある。
无邪志国(むざしのくに)とは
現在の埼玉東部・東京東部、すなわち足立・入間・大宮あたりの地域の名称。
7世紀に始まる令制国の武蔵国は、この无邪志国と埼玉西部にあった知々父国とが合わさったものである。
赤い鳥居と幟が圓山随身稲荷大明神。これを境にして手前が前方部、奥が後円部となる。
▼くびれ部分から後円部を見る
江戸時代にはもう頂上部は削り取られて公園化していたらしい。
▼くびれ部分から前方部を見る
後円部より低く、横幅が狭い前方部。これは5世紀の古墳の特徴らしい。
最後に
芝公園には、増上寺を中心としてたくさんの史蹟が存在する。
1000年以上前には、この芝公園が「飯倉山」と呼ばれ伊勢神宮の御厨があったこと、そこに神明社(現:芝大神宮)が鎮座していたこと、そのころからこのあたりは「神聖なる地」であったことを忘れてはならないのである。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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