町田天満宮|東京町田|原町田の守護神。優しい土地のパワーを感じることができる町田のオアシスである。

2017年5月23日

東京都町田市。町田天満宮は、JR町田駅から横浜方向に10分程度歩いた、横浜線沿いに鎮座する。

閑静な住宅街の中に鎮座するも、結構な敷地面積を持つ。地元の人たちと思われる参拝者が途切れることなく訪れる、町田の氏神様として信仰を集めている神社とお見受けした。

境内には梅林がある。ちょうど5月の参拝だったため、青梅が実っていたのが印象的であった。

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町田天満宮について

町田天満宮 概要

  • 所在地   東京都町田市原町田1丁目21−5
  • 電話番号  042-722-2325
  • 主祭神  菅原道真公
  • 創建年      天正10年(1582年)
  • 社格   
  • 公式HP    https://tenmangu.newsinet.com/

町田天満宮 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR横浜線「町田駅」徒歩10分
  • 小田急線小田原線「町田駅」徒歩15分

駐車場

  • あり(無料)

町田天満宮の創建

神社由緒書によると、、、

元応年間というから、鎌倉時代の末期。後醍醐天皇による建武の親政の少し前のこと。

このあたりの名士であるところの「大沢七郎正純」が、京都の北野天満宮に詣でた際に、菅原道真公の尊像を得て、自家の守り神として祀ったことからすべてが始まる。

時は流れて室町時代。永享年間、先の「正純」から七代を経た「大沢左近正次」が、自家で祀っていた尊像を井出の沢の山上(丘上)に奉安した。

そこは、かつて井出沢城が造営されていた場所で、度重なる戦によって多くの戦士たちが命を落とした場所である。彼らの御魂を鎮める意味合いもあったのではと考えられる。

その後、長い年月を掛けて広く信仰をあつめ、本町田村には「菅原神社」が不可欠な存在になっていったのだと思う。

さらに時は流れて、天正10年(1582年)本能寺の変により信長から秀吉へと時代が大きく変化した年に、本町田村から原町田村(当社鎮座地)が分離独立することに。

新しい村にも菅原神社が必要だということになり、古くから祠があった当地に菅原道真公を祀った。

これが、この地での創建となろう。

その後、元和元年。大坂夏の陣にて豊臣家が滅亡した年。この地の名主「三橋氏」「武藤氏」によって、社殿が造営され「天満天神奉遷宮」となり、

幕末の嘉永6年、ペリー来航の年。京都白川殿より「町田天馬威徳天神」の称号を賜り、以降、「天満宮」を称することとなる。

昭和39年。東京オリンピックの年。氏子区域の日枝社と大綱社を合祀し、「町田天満宮」と改名した。

これが、町田天満宮の創建である。

町田天満宮の祭神

もちろん、菅原道真公である。

菅原道真公

平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様といわれる所以だ。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷。ほどなく死去した悲運の人である。

死を前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたという。この時点で神となったのだろう。

その怨念は凄まじく「祟り神」となった。「日本三大怨霊」の一人とされているほどである。(他、崇徳天皇・平将門公)

後に、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建され、現在ではすっかり「学問の神様」として昇華されたとされる。

町田天満宮のご利益

農耕神、冤罪を救う神、学問・書道の神とされる。

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町田天満宮の参拝記録

さあ今回は恒例となった、出張先の駅から徒歩10分以内で参拝できる神社のご紹介である。かつて、名古屋駅近くの「白龍神社」、博多駅近くの「住吉神社」や「櫛田神社」、御茶ノ水駅近くの「神田明神」などなど、ご紹介申し上げてきた。

これは、単に時間が空いたからということではない。出張中に遊んでいるわけではないのである。

よそ者である私が出張先の土地で仕事を行うにあたり、やはり土地の神様にご挨拶しなければ失礼にあたるのではないか?などと思うからである。それが最終的に営業成績にもつながるはずなのである。

そういう意味で、これも業務の一環なのだ!

というわけで、今回は町田天満宮。

横浜線町田駅を下車。線路沿いに横浜方面に歩いていく。日差しは厳しいが、風が強いため、意外に気持ちがいい。

ゆるやかな坂を登っていく。登り切った頂上から、線路の向こう側に鳥居と鎮守の森が見えている。

線路を横断するためには歩道橋を渡ることになるのだが、この歩道橋の名称が「参宮橋」。まさに天満宮を参拝するための橋のようだ。

歩道橋を渡ると鳥居前に降りる階段も設えられている。

こんな感じである。自動的に鳥居前に誘われるような感覚。

では、いよいよ鳥居をくぐろう。

こちらの神域は、なんと表現すればいいだろうか、「リラックス」「癒し」という感覚にプラスして「素直」になれる感じとでも言おうか。地面から湧き上がってくるような気がする。

先日参拝したばかりの「服部天神宮」と似た空気感がある。

こちらの手水舎は、井戸水を使用しているとの事。水が勢いよく出ている。

水口は龍。水盤にはお馴染みの神紋が。清めよう。

出世稲荷社

手水舎の向かい、大鳥居の右手に、朱色の鳥居が美しい「出世稲荷社」が鎮座する。

祭神は、宇迦之御魂神。伏見稲荷大社が総本宮である。日本の稲荷社の大部分は伏見稲荷からの勧請、もしくは、そのまた勧請であるとされる。

稲荷社のやしろ

こちらの稲荷社、鳥居は朱色だが社は朱塗りではない。

こまかい彫刻が施してあり、さらに檜皮葺である。これは珍しい。かなり古いものと推察する。

出世稲荷というからには、ご利益は出世運と思われる。いや、そうでなければならぬ。

本殿拝殿に向かおう。

参道には牛像が2体、奉納されている。

臥牛像

道真公と牛

何故、天満宮には臥牛像が奉納されるのか?

道真公と牛は、非常に縁が深いとされる。

  • 道真公は丑年生まれ。
  • 牛車の牛を可愛がっていた。
  • 大宰府へも愛牛に引かれて赴いた

などなど。

しかし、臥した牛である由縁は、、、

道真公の亡骸を墓所までお連れする道で、例の愛牛が臥して動かなくなった。押しても引いても頑として動かない。

これは何か意味があるのでは?と考えた従者たちは、この臥した場所を墓所と定め、道真公の亡骸を埋葬し祀った。

この場所が、後に「大宰府天満宮」となる。

本殿拝殿

屋根の反りがクールな拝殿である。戦闘機の翼を思い起こさせる屋根のフォルムである。

神額

実に神々しい。久々に本殿からあふれる「神気」というものを感じた気がした。堀越神社のような「神気」。

拝殿内部

開放的で明るい拝殿・幣殿である。

二拝二拍手一拝。天津祝詞奏上。神妙である。この町田という地に来させてもらったことへの感謝と挨拶のみ申し上げる。

旧拝殿

新拝殿と同じくクールな反りの屋根を持つ。新拝殿よりは少し小振りか。しかし、完全なる木造建造物。木の香やぬくもりが伝わってきて、いい感じなのだ。

江戸時代の拝殿は明治5年に焼失したが、明治27年に再建。その再建された拝殿が「旧拝殿」と称して、合祀殿的に使われている。

扉の彫刻

扉や梁に、細かくも勢いのある彫刻が施されている。とても魅力的な建造物である。こいうものは、後世へと受け継いでいきたいのもだ。

さて、こちらには、下記の神々が祀られている。ご神徳と合わせてご紹介させていただこう。

大物主神

讃岐の金毘羅宮に祀られる大物主神であろう。福徳の神、海上交通守護の神として祀られているようだ。

古事記によると、大国主命の和魂と自称しているのだが。

三輪明神とも呼ばれ、大和三輪山に君臨する。日本最古の神社と言われる「大神神社」の主祭神でもある。

国家運営、農業、工業、商業すべての産業開発、 方除(ほうよけ)、治病、造酒、製薬、禁厭(まじない)、交通、航海、縁結びなど世の中の幸福を増し進めることを計られた人間生活の守護神とされる。

素戔嗚尊

伊弉諾尊が黄泉国から戻り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしの、ひむかの、たちばなの、おどの、あわぎはら)で禊払をした際に生まれた三柱の神の末っ子。姉に天照大神、兄に月読命を持つ。この三柱の兄弟神を三貴子と呼ぶ。

農耕の神、疫病祓いの神として崇敬されてきた。京都の八坂神社(祇園社)の祭神で、祇園祭は梅雨から初夏にかけて蔓延する疫病から守るための祭であった。

牛頭天王と習合したので、江戸時代に全国各地にあった「牛頭天王社」のほとんどが、明治期には「素戔嗚尊」に祭神名を改めている。

恵比寿神

ご存知であるところの七福神の一員だ。ほかの6神はインドや中国の神であるのに対して恵比寿神のみ日本の神とされる。

実は、全国の恵比寿神社(戎神社)の祭神の成り立ちには2種類ある。一つはこちらの祭神である「蛭子神」。もう一つは、大国主命の息子「事代主神」である。

蛭子神は、伊弉諾尊と伊弉冉尊の初期の子で、蛭子と書いて「ヒルコ」と読む。おそらくは早産による未熟児と思われる。なんということか両神はこの子を葦で編んだ船に乗せて海に流した。

商売繁盛・産業振興の守護神である。また、水子の守護神として祀る神社もある。京都の平野神社の末社がそうだった。

聖徳太子

用明天皇の御子「厩戸皇子」である。推古天皇の御代には摂政として政治を執り行った。様々な伝説が残る「天才」。当時の最先端の思想「仏教」を政治の世界に取り入れ、冠位十二階・十七条憲法を制定。

「和を以て貴しと為す」

これは、実に日本的な道徳観であり、今も日本人の根底に連綿と生き続けている。

「三宝を篤く敬え。三宝とは仏・法・僧である」

日本書紀に書かれているこの条文には違和感を覚える。当時、仏教による国造りを進めていたとはいえ、やはり天皇が絶対の時代。神道を完全に無視できようか。最後の「僧」とは笑止千万である。

私は、先代旧事本紀大成経に書かれている内容を支持する。

「三宝を篤く敬え。三宝とは儒・仏・神である」

この方が、第一条の「和を以て貴しと為す」との整合性もとれるというものだ。。。

あくまでも主観であるが。。。

境内の樹木

こちらは、本殿拝殿横の楠と欅だろうか。境内の樹木はどれも青々として瑞々しい。この土地のパワーを感じる。

梅林

境内には梅の木が多く植わっている。牛と同じように、梅も天満宮にとって特別な存在である。

飛梅伝説

道真公の京都の邸宅の庭に、道真公が愛した梅・桜・松があったという。太宰府赴任を前にして、三種の木に別れを告げる。

その時、梅の木に詠んだ有名な和歌がこちら。

「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅花(うめのはな) 主なしとて 春を忘るな」

桜の木は、主人が旅立ったのち、悲しみに暮れて枯れ果ててしまった。
松の木は、大宰府へ飛んでいこうとしたが途中で力尽き兵庫あたりで落ちた。
梅の木だけが、大宰府まで飛んでいったという。

現在も大宰府天満宮の境内に植わっており、「飛梅」と名付けられている。

この飛梅から挿し木で全国の天満宮に移植されているときく。こちらの梅の木もそうなのだろう。

最後に

空を見上げる。この時期の関西は黄砂がひどく空は白っぽいままだ。生駒山すらぼやけて見える。

しかし、関東の空は青く美しい。

その青い空を引き裂くように、轟音を残して飛び去る戦闘機が2機。横田基地か?厚木基地が近いのか?。。。現実に戻される。

町田の街を散策してみよう。初めての街だが、心なしか親近感がわいてくるのは気のせいであろうか。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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