菅原天満宮|奈良|菅原氏発祥の地に鎮座する最古の天満宮

2021年8月11日

菅原天満宮は、奈良市菅原町にある式内社。全国に1万2000社あるという天満宮の中でも「最古」と言われる古社である。

当地は奈良時代に菅原氏発祥の地であり、菅原道真公生誕の地とも。なので、道真公の神徳にあやかり、試験合格・学業向上の祈願に多くの人が集まるという。

そんな菅原天満宮の魅力を菅原氏の歴史とともにご紹介して行きたいと思う。

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菅原天満宮について

菅原天満宮の概要

  • 所在地    奈良県奈良市菅原町東1-15-1
  • 電話番号   0742-45-3576
  • 主祭神    天穂日命・野見宿禰命・菅原道真公
  • 社格     郷社
  • 公式HP    http://www.sugawaratenmangu.com/index.html

菅原天満宮  アクセス

MAP

最寄り駅

  • 近鉄奈良線「西大寺駅」徒歩15分

車でのアクセス・駐車場

  • アクセスは容易
  • 駐車場あり(無料)

菅原天満宮の祭神

祭神は、天穂日命、野見宿禰命、菅原道真公の三柱

しかし、喜式神名帳には「菅原神社 一座」と掲載されいているので、もともとは菅原氏の遠祖「天穂日命」を祀った氏神だったと思われる。

天穂日命

天穂日神社の天穂日命像

菅原氏の遠祖として祀られている天穂日命は、天照大御神と須佐之男命が誓約をして生まれた五男三女のうちの次男。長兄が天忍穂耳尊。

葦原中國平定のため高天原から出雲に遣わされたが、大国主命に心服して、3年間高天原に戻らなかった。

後に国譲りが成功したとき、大国主神に仕える神官として再び出雲に降臨。よって、出雲国造の祖神とされる。

野見宿禰命

菅原氏の祖として祀られている野見宿禰命は、前述の天穂日命の14世孫とされる。

垂仁天皇の命により、出雲から都にやってきて、大和で一番強いと言われた当麻蹴速と対戦。これを踏み殺したという怪力の持ち主。

垂仁天皇の皇后の葬儀の際、殉死の風習に替わる「埴輪」を発案して認められ、「土師氏」を賜った。以降、古墳造営をはじめとする、天皇家の葬儀一式を取り仕切ったいう。

この土師氏が後に氏を変えて菅原氏となる。当時、菅原の里すなわち当地に居住していたからだとか。

菅原道真公

日本を代表する学問の神。しかして実体は、日本を代表する怨霊でもある。

大きな権力を持たない菅原氏の出身でありながら、右大臣にまで上り詰めた稀代の大秀才だったが、政敵による讒言により太宰府へ左遷。

無実を訴えるも叶わず非業の死を遂げ、道真公は怨霊と化したと考えられた。それは、道真公の死後に大きな災いが宮中に起こり、関係者が次々を変死したからである。

そこで、都に道真公を天満大自在天神として祀り鎮める神社が創建された。北野天満宮である。これが天神信仰の始まりとされる。

土師氏から菅原氏へ

前述の通り、11代垂仁天皇の御代に、野見宿禰が殉死の風習を無くす「埴輪の制」を考案したことで土師臣を賜り、以降、天皇の葬送儀式一切を取り仕切るようになる。

古墳時代を通して大きな氏族に成長し、畿内の各地に進出していった。

土師氏の系図によると、土師氏はいくつかに枝分かれしたようだ。

その内の、平城京の西「菅原邑」に居住した一派の長「土師宿禰古人」が、「土師」から居住地名である「菅原」に姓の変更を願い出て許された。奈良時代末期の781年のこと。これが菅原氏の誕生である。

同時期に、中百舌鳥から乙訓郡大枝に移住した一派は「大枝」に改姓(のちの大江氏)、奈良の秋篠の里に居住した一派は「秋篠」に改姓した。

この改姓は、古墳時代が終わり土師氏が徐々に衰退しつつあるという危機感の中、土師氏にまとわりつく「葬儀=凶事」のイメージを払拭することを目的としたものと考えられている。

実際、改姓後は、菅原氏・大枝氏とも学者や文化人を多く輩出する氏族として成長していくいこととなる。

菅原神社の創建

創建年代は不詳であるが、想像するに、、、

前項の菅原氏の経緯の中で、菅原邑に氏神を祀る神社を創建するタイミングとして考えられるのは、菅原邑に土師氏の一派が棲みついたタイミング。これが一番自然だろう。

では、それはいつの頃か、、、

土師氏の系図を見ると、菅原、大枝、秋篠の三氏が改姓したその6代前に分岐点がある。

この頃に、三派がそれぞれの地域に根を張ったと仮定しよう。

6代の経年に100年が必要だとするならば、土師宿禰古人が菅原に改姓した781年の100年ほど前、すなわち681年頃には菅原の地に居住し始めたと考えることができる。

となれば飛鳥時代の末頃となろうか。少なくとも奈良時代には存在しているものと思われる。

菅原天満宮のご利益

天穂日命のご神徳として天下泰平・国土安泰・五穀豊穣。また、道真公のご神徳として学業向上。

また、2月の祈年祭(おんだ祭)では、五穀豊穣・家内安全・子孫繁栄が祈願される、

さらには、6月の鷽替え神事で「昨年の厄災をウソだったことにして吉に替えてしまう」すなわち厄災除けが祈願される。

よって、菅原天満宮のご利益としては、 天下泰平・国土安泰・五穀豊穣 ・学業向上・家内安全・子孫繁栄を掲げることができよう。

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菅原天満宮 参拝記録

阪奈道路の高架下を生駒から奈良方面に進むと、蓮の花で有名な喜光寺が見えてくる。その喜光寺の門前を通過してすぐの交差点「菅原」を北に入ろう。

そして、古い集落の中を180mほど走ると、右側に菅原天満宮の社頭が見えるだろう。

駐車場は、、、鳥居の向かい側に3台程度が止めることが出来そうなスペースがある。

菅原天満宮の社頭

社標には「菅家発祥の地」、そして「菅公御誕生所」とある。

「菅家(菅原氏)発祥の地」というのは、前述の通りで問題ないだろう。

しかし「菅公(菅原道真公)御誕生所」というのはどうだろうか。

生誕の地は各地にあり、真相はわからない。

主なものを上げると、、、

<当社>
菅原神社に菅原邸があったのは道真公の曾祖父「菅原古人」の時代。道真公を出産する際、旧地に里帰りして出産したと伝わる。社地から100mほど東に「菅原道真公産湯の池」がある。

<吉祥院天満宮>
「菅原古人」 が平安京に移住して屋敷を構えたのが吉祥院。今、吉祥院天満宮がある。こちらで誕生から18歳まで過ごしたと伝わっている。境内に産湯井や胞衣塚がある。

<菅原院天満宮>
「菅原清公」から「菅原道真」までの3代が住んだと伝わる屋敷跡が烏丸丸太町にある。今は菅原院天満宮となっている。ここにも産湯井が残されている。

<菅大臣神社>
四条烏丸あたりにある菅大臣神社も、道真公の邸宅として伝わる。こちらにも産湯の井戸が残されている。

これら全て、菅原氏の邸宅跡であるが、今一つ決め手がない。

もう一つの可能性としては、出産は母親の実家で行う風習があったかもしれないという考え方だろう。

道真公の母親は、伴真成の娘と記録されている。伴真成の邸宅跡がわかれば、、、

これが全くもってわからないのである。お手上げだ。

いずれにしても、当地である可能性は微妙と感ずるが、これは誰にも分らないことである。

拝殿

これが菅原天満宮の拝殿。オーソドックスな造りである。

拝殿内部。梁に掲げられているのは三十六歌仙の和歌とみた。

大きな鏡を置かれている場所は、祝詞殿。その奥に本殿の扉がある。

二拝二拍手一礼。

本殿

流造りで銅葺き屋根の本殿。千木は無い。

小動物の進入を防ぐためか祝詞殿から白壁が張り出していて、本殿のほとんどが見えない状態である。

末社

晴彦神社と稲荷社

右の祠は稲荷社。白い狐が置かれている。祭神は豊宇気姫。食物神だ。

左の祠は度会晴彦社。

祭神の度会晴彦は、もともとは伊勢神宮外宮の禰宜。

後継ぎの無かった道真の父「是善」が、外宮の度会晴彦を通じて神に祈願したとこで道真が生まれたとされる。そんな縁で、道真の傅役となる。以来、数十年に渡って度々京に上り道真に仕えたという。

このようなことで、ご利益は「子授け」である。

市杵島姫神社

市杵島姫神社の祭神は市杵島姫命。宗像三女神の一柱。とはいえ、おそらくは弁財天を祀る祠であっただろうと推察する。

ご利益は、芸能と美容、そして財福。女性に優しい神様である。

カンコー学生服

学生服ブランドの「カンコー」をご存じだろうか。江戸末期の安政元年創業の超老舗である。

カンコー学生服は、実は「菅公学生服」と書く。

学問の神様である菅原道真公の尊称である「菅公」を冠することで、学者でありながら政治の道を志し、世の中のために尽力した道真公のように、夢や目標への強い信念をもって道を切り開いてもらいたい。

そんな思いを込めて名付けられたと聞く。

子供たちの学力の向上は、国力の向上に直結すると言って過言ではない。

素晴らしいネーミングだと感ずるところである。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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