鎧神社|北新宿|東西二大武神の鎧が眠る神社。

2018年10月15日

鎧神社は、東京都新宿区北新宿の住宅街の一角にある神社で、平将門公の鎧が眠るという伝承で有名な神社である。

境内には幼稚園が併設され、また隣には小学校がある。子どもたちの賑やかな歓声が聞こえてきて、知らず知らずのうちに元気になれる神社であった。

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鎧神社について

鎧神社 概要

  • 所在地   東京都新宿区北新宿3-16-18
  • 電話番号  03-3371-7324
  • 主祭神   日本武尊・大己貴命・少彦名命
  • 創建年      940年頃(伝)
  • 社格   
  • 公式HP     http://yoroi.or.jp/index.html

鎧神社 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR中央総武線(各駅)「大久保駅」徒歩11分
  • JR中央総武線(各駅)「東中野駅」徒歩14分
  • 都営大江戸線「東中野駅」徒歩14分

鎧神社の祭神

日本武尊、大己貴命、少彦名命、平将門公の4柱を祀る。

日本武尊(やまとたけるのみこと)

12代景行天皇の皇子。16歳で熊襲征伐に活躍し、帰還するやいなや今度は東国出兵。

天照大神の御杖代「倭姫命」から託された、三種神器のひとつ「草薙剣」の神力によって東国を平定。

最後は、草薙剣を持たずに伊吹山の荒ぶる神を征伐するために出兵したが病に倒れ、三重の山奥で最期を遂げた。

死して白鳥に姿を変え、天に昇ったとされる。

古代における、武勇に優れた英雄の一人と言えよう。

大己貴命(おおなむちのみこと)

亦の名を大国主命という。国津神の親玉的存在。国造りの神であり、国譲り後は出雲大社に祀られた神である。

少彦名命(すくなひこなのみこと)

海のかなたから「ガガイモ」の船でやってきた、手のひらにも乗るほどの小さな神。大国主命の国造りに協力した神。

酒造りや温泉などを伝えたとされ医薬の神とされる。また産業発展の神でもある。

平将門公(たいらのまさかどこう)<配神>

桓武平氏の子孫。関東東部の平氏一族の勢力争いに巻き込まれ、やがて関東一円を平定。

関東の独立を目論見「新皇」を名乗ったために朝敵となる。各地で善戦するも、藤原秀郷率いる討伐軍に敗れて戦死。

級首は京に送られて晒されたが、関東まで飛んで帰ってきたという。

関東地方の英雄にして、関東最強の祟り神でもある。菅原道真公、崇徳天皇と並んで、日本三大怨霊に数えられる。

鎧神社の創建

古代

日本武尊が東国平定に赴いた際、この地に甲冑六具を隠したという伝承がある。

円照寺の開基と鎧神社の創建

醍醐天皇の御代というから西暦897年~930年の間のこと。

真言宗の高僧であるところの「聖宝」の弟子「貞崇」によって、現在の円照寺の場所に薬師堂が建立され薬師如来像が安置された。

のち、西暦940年、平将門の乱における討伐軍の大将「藤原秀郷」が中野あたりで病となってしまった際、薬師如来像に祈ったところ、快癒したという。

そして同時に祈願した将門公征伐も成就したことから、感謝した秀郷によって円照寺が建立され、円照寺の鬼門守護として神社を創建した。

創建後

藤原秀郷が将門公を討った後、重い病になった。また?

円照寺に祈願に行ったときに、「これは将門公の祟りではないか?」と思いついたようで、将門公の鎧を納めて霊を弔ったところ、またしても快癒したという。

また、一説には、この地の人々が将門公の死を悼んで、天暦元年(947年)に、将門公の鎧もまた当地に埋めたとも伝わる。

が、この地の人々が将門公の鎧を手に入れることは至難の業ではないかと思うのだが、、、

鎧神社のご利益

日本を代表する武門の誉れ高い2柱の神が祀られているのである。勝負運を頂けなくして何としようか。

また、大国主命と少彦名命という国造りの2柱の神が祀られているのであるからして、経営・開発・医療・縁結びにご利益があるのは当然のことであろう。

少彦名命と、後述するが菅原道真公のご神徳により、知恵発達・学業向上も頂けるのである。

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鎧神社 参拝記録

中野での商談を終え、次なるは新宿で商談だ。2時間の空き時間が発生した。こうなると、神社参拝しかあるまい。

というわけで、平将門公ゆかりの神社「鎧神社」を目指すことにした。

中央総武線に乗り東中野で下車。スマホナビを頼りに大久保方面に歩く。東京は起伏に富んだ面白い地形をしている。

そんな地形を楽しみながら歩を進めること10分ぐらいだろうか。淀橋第四小学校の北側に神社を見つけた。

南にある鳥居

これは本殿の横から入る鳥居である。味のある狛犬が両脇を固めている。しかしこちらは、いわゆる裏参道。表に回ろう。

鎧神社の正面鳥居

こちらが、正面の鳥居。二つの鎧が眠っているかもしれない本殿・拝殿へ伸びる内参道へと足を踏み入れるのだ。

鎧神社の水盤と水口

手口を漱ぐために手水舎へ。水盤に水が張られていない。

これでは身を清められないではないか!いや、心配は無用である。近づくと水が出るシステムなのだ。

鎧神社の拝殿

さて、神前へと進もう。内参道を歩いていくと、妙に後ろが気になった。振り向くと、、、

ご神木

大きなご神木がこちらを見ていた。ように思えた。

もう一つ、私の足を止めさせるものがある。それは、拝殿前の狛犬だ。

拝殿前の狛犬

私が興味を持ったのは、阿吽一対の狛犬が正面を向いている点。普通は狛犬同士が向かい合わせになっていることが多いのではないだろうか。

こちらは、キッ!と前を向いているのである。面白い。

そして、もう一つのポイントは、実に大きいという点である。画像では伝わらないのだが、実物を見ると意外に大きいことがお分かりになるだろう。

由緒などはわからない。というか、そこんとこはあまり興味がないのである。

鎧神社の拝殿

木造の拝殿である。風通しのよさそうな拝殿だ。この明るさがいい。

二拝二拍手一拝。

鎧神社の本殿

本殿はコンクリート造である。千木は外削ぎで鰹木は奇数。

末社の鳥居

本殿の左に境内社が鎮座。赤い鳥居が建てられている。ちょうど裏参道の入り口付近である。

末社 稲荷神社・三峯神社・子の権現

右に稲荷神社。宇迦之御魂神を祀る。この緑色の光は何なんだろうか。

左は三峯神社子の権現の合祀社。伊弉諾尊、伊弉冉尊、大国主命を祀っている。

摂社 天神社

表の鳥居まで戻ると、その隣に天神社が鎮座している。祭神は菅原道真公

この天神社の創建は古く、西暦903年と伝わる。道真公の死後、平安京から自彫の木像を奉納して祀ったのが始まり。

柏木村の鎮守として現在の柏木北公園あたりに鎮座していたらしいが、明治の中頃に当地に遷座されたという。

ちなみに、、、

江戸時代初期。柏木村の鳴子地区が春日局の所領となったとき、天神を篤く信仰していた春日局は、道真公を鳴子の鎮守とするために、天神社から天満天神を勧請。そして「天満天神社」と称した。これが現在の西新宿にある「成子天神」の始まりである。

このようか関係から、鎧神社の摂社「天神社」は、「元天神」とも称されるのである。

大きくはないが、カチッとした印象の社である。学業向上を祈るもよし、厄払いを祈るもよし。

なんといっても、日本三大怨霊の一人なのだから、ご神威は絶大である。

狛犬型庚申塔

拝殿の両脇にはユーモラスな狛犬が一対。台座に「庚申塔」と刻まれているので、庚申塔なのだろう。1721年の造営。

このような狛犬型の庚申塔は全国でも珍しいという。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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