照国神社|鹿児島|鹿児島の”総氏神様”島津斉彬公を祀る神社。
照国神社は鹿児島市照国町に鎮座する、鹿児島の総氏神様と崇敬される神社である。
鎮座地は、城山の麓に築かれた「鹿児島城」の二の丸の西。ここには江戸時代には南泉院と東照宮があったという。
鹿児島城は、初代藩主「家久」によって築かれた鹿児島城は、城山麓沿いに横に長い城域を持ち、鶴が羽を広げた形に似ていることから「鶴丸城」と呼ばれるようになった。
一般的に見る、高い石垣・深く広い濠・天守などの高層建築物などはなく、極めて簡素な構造で、一見すると戦闘機能は低く見える。
しかし、後ろに聳える城山が後詰の要塞として機能し、城山と鶴丸城のセットで防衛する仕組みだそうだ。
実際、西南戦争において西郷軍が立て籠もったのが「城山」である。
照国神社について
照国神社 概要
- 所在地 鹿児島県鹿児島市照国町19−35
- 電話番号 099-222-1820
- アクセス 鹿児島市電「天文館通」「いずろ通」徒歩5分
- 駐車場 あり(無料)
- 主祭神 照国大明神(島津斉彬公)
- 創建年 1862年(文久2年)
- 社格 旧別格官幣社、別表神社
- 公式HP http://www.terukunijinja.jp/
MAP
照国神社の祭神
江戸時代終り頃から明治初期にかけて、藩祖を祀る神社が各地で創建されたが、こちらに祀られるは藩祖ではなく、
明治維新へと進んでいく時代の先駆けとして大活躍した、薩摩藩第11代藩主「島津斉彬公」を祀っている。
すなわち、照国神社の祭神「照国大明神」は島津斉彬公である。
島津斉彬公
藩主としては、わずか7年の治政であったが、薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君である。
その力は薩摩藩内に留まらず、幕政にも影響力を発揮。公武合体や幕政改革を推進。勝海舟など幕府内部の要人からの信頼も篤かった。
松平慶永(福井藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並んで幕末の四賢侯と称された。
しかし、なんといっても斉彬公の最大の功績は、人材の育成。
西郷や大久保といった下級武士であっても、能力あるものを育成し活躍の場を与える。このような人材育成能力は、当時の大名に中では群を抜いて高かったと言えよう。
照国神社の創建・歴史
文久2年(1862年)、斉彬公の異母弟「久光」と甥「忠義」が「南泉院」郭内に社地を選定。
文久3年(1863年)、孝明天皇の勅命によって「照国大明神」の神号が授与され、祠を造営したのが始まり。
文久4年(1864年)、改めて東照宮が建っていた地に社殿を造営し、照國神社と称するようになった。
明治初年、「南泉院」は廃仏毀釈運動によって破却された。
明治6年(1873年)、県社に列す。
明治15年(1882年)には別格官幣社に昇格。
照国神社のご利益
鹿児島の総氏神様であるからして「地域守護」のご利益を頂けようことは言うまでもなく、祭神は日本国のために尽力したのであるからして「国家鎮護」のご神徳もあろう。
また、殖産振興を下支えとして富国強兵につとめた祭神であり、かつ、県下最大の商業集積地「天文館」からも近いため、「商売繁盛」のご利益も期待したいところだ。
そして、斉彬公は幼少の頃から蘭学を学び海外の知識を深めたという。よって「学業向上」のご利益も嬉しい。
そしてそして、斉彬公の意思を継ぐ人材が新しい時代を切り開いていったことから、新しいことに取り組む人の後押しをして頂けそうである。「事業発展」としておこう。
照国神社 参拝記録
鹿児島中央から鹿児島市電に乗る。いわゆるチンチン電車。大阪でいうなれば天王寺から住吉大社へ行く阪堺線。東京であれば都電荒川線。
これでもって、「天文館通」まで行こう。運賃は大人170円。
鹿児島市電の乗り方
ここで老婆心ながら、他県の方々に市電の乗り方を説明しておこう。
注意点
まず最初に。お急ぎの場合はバスを利用されることをお勧めする。車速が、やたら遅い。そして、電停で待っている間に何台のバスが目の前を通り過ぎたことか。。。
もう一つ。ICOCAは使えないから注意が必要だ。
市電の駅は「電停」と呼ぶ。電停は前後からプラットホームに上がることが出来る。しかし、ここでも注意事項がある。人の列を見て、どちらが最後尾か判断する必要があるのだ。
私は間違って列の先頭に立ってしまった。4人目のお兄ちゃんが睨んでいる。若いころなら、ひと悶着ある場面であるが、、、私も大人である。
では乗り方を、、、
車両中央のドアから乗り込む。降車は前のドアから。お釣りは出ない。事前に両替をする必要がある。両替機は車内にあるから心配はいらない。
それだけだ。
「天文館通」で下車。天文館の交差点を左に曲がり天文館のアーケードに入る。そこをひたすら直進すると大通りに出る。
大通りから左を見ると、白い大鳥居が見えるだろう。
駐車場は?
車でお越しの場合は、境内西側(大鳥居の左奥)に無料の駐車場があるので、そちらをご利用頂ければと思う。
大鳥居
これが照国神社の大鳥居。バックに城山。今、画像を見て気が付いたのだが、電柱・電線がない
斉鶴
鳥居をくぐると見に飛び込むのが「斉鶴」。鶴が翼を広げた様子に刈り込んだイヌマキの木。斉彬公の時代の木と推定される。斉は斉彬公の斉。
島津の家紋「丸に十字」が燦然と輝く水盤。
丸に十字の紋にはいくつかの説がある。
- 二匹の龍を表している。
- 二本の箸で出陣戦勝のまじない。
- 轡(くつわ)紋の変形型
- キリスト教の十字架
- 十字を切る呪符
現在の定説は、「十字を切る呪符」らしい。
島津家はキリスト教の伝来前から十字紋を使っていたので、キリスト教説は無いだろう。
神門
神門から拝殿が見える。
拝殿
1953年再建の拝殿や本殿はコンクリート造りとなっている。
太平洋戦争末期、鹿児島市は本土最南端の前線に位置し、県下には特攻隊基地をはじめとする軍事施設があったため、8回もの空襲に見舞われた。死者3000人以上、市内の91パーセントの建物が焼失したという。
当然、木造であった照国神社の拝殿や本殿は焼失。残ったのは石造の大鳥居のみだったという。
そんなことを思いながら、、、二拝二拍手一拝。平和に感謝する。
▼拝殿・本殿を囲む濠
拝殿に向かって左手、濠を渡り本殿へ回り込む。
本殿裏 境内社
保食神社(照国稲荷)
拝殿に向かって左奥に、稲荷社があった。
「保食神社」とある。照国稲荷と称され、商売繁盛を祈願する人々の信仰を集める。
祭神は、「倉稲魂神」(うかのみたまのかみ)であるという。「保食神」(うけもちのかみ)ではないらしい。
もともとは城山の中腹に鎮座。台風で被災したため照国神社境内に遷座したという。
島津家と稲荷神
大阪の住吉大社境内に「誕生石」と呼ばれる石がある。島津家初代の忠久は、ここで誕生したという。
源頼朝の側室の丹後局が懐妊。それを知った正室の北条政子が激怒。丹後局の殺害を企てる。これを家臣の本多次郎親経が逃がす。
摂津の住吉あたりまで来たころには、日も暮れ大嵐となる。途方に暮れていると多くの狐火が灯り、それを道しるべに住吉大社にたどり着くことができた。
すると、にわかに産気づく。本多次郎が祈る中、大きな石にしがみつきながら男子を出産する。
この男子が後の島津三郎忠久公、すなわち薩摩の島津家初代当主となる人である。
狐火=稲荷神の導きで、初代忠久が誕生したという説話である。
さらに奥へと、照国稲荷の横をすり抜けていくと、城山の裾野に出た。
邪鬼
仏教寺院において、四天王の足元で踏みつけられている鬼を「邪鬼」という。仏法に背く邪神を懲らしめる意味を持つ。
この邪鬼も頭の上に台がのっている。もともとここにあった「南泉院」が廃仏毀釈運動で破却された時の残骸だろうか。。。
水宮の鳥居
邪鬼の左に「水宮」への鳥居がある。この雰囲気は、ビビりの私には少しく厳しい。
勇気を持って鳥居をくぐると。。。
何故か、ここだけがピンボケした画像になってしまったが、左側に並ぶのは、「水神」「山神」「地神」と刻まれた石柱の数々。
鹿児島の山中には、こうした自然信仰の名残りと思われる石柱が散見されるらしい。近隣のそれらをここに集めてきたものと推察する。
水神様
照国神社創建以前からここに祀られている「水神」。城山から湧く伏流水を守る。
自然信仰における水の神だろう。となれば、一般的には龍神様となろうか。
この参道の半ばから、後頭部から背中にかけてジンジンする感覚が。。。不思議に怖さはない。名古屋の白龍神社で感じたものと似た感覚。やはり龍神様か。
あとから調べると、ここを訪れる人の中には同様の感覚を持つ人が多数いらっしゃるようだ。
奉遷壕跡記念碑
ちょうど、本殿の裏手に「奉遷壕跡記念碑」が立てられていた。
太平洋戦争末期に掘られた防空壕跡。空襲からご神体をお守りするために造られた。
空襲警報が鳴るたびに、B29の轟音が近づいてくる中、ご神体を抱きかかえて、大慌てで防空壕に遷し奉る神職さん達の姿を想像するに、平和な世の中に生まれたことへの感謝を感じざるを得ないのである。
いろんなことを考えさせられながら、照国神社の参拝を終え、隣の広場に出た。
本殿東側の様子
島津斉彬公銅像と戊辰の役戦士顕彰の碑
幕末の名君「島津斉彬公」は、国の行く末を憂い、西洋の技術を積極的に取り入れ、有能な人材を発掘した。
斉彬公は、
「この国を守るためには、広く人材を集めて西洋技術や西洋文化を徹底的に勉強し、それをベースに殖産興業と富国強兵を進め、欧米列強に肩を並べる国にすることが急務である。」
と考えていた。
まさしく、斉彬公が発掘した若き人材たちによって、それは成し遂げられたのである。
ここには、その斉彬公の銅像と、すぐそばには、倒幕戦線「戊辰の役」で勇ましく戦った戦士の功績を讃える石碑が立てられているのである。
彼らの働きがなければ、現在の日本は無いと言っても過言ではない。感謝するほかない。
護国神社 頓宮
銅像や顕彰碑のさらに右に、鹿児島県護国神社の頓宮がある。護国神社とは、国の為に命を捧げた人たちを神として祀る神社のことを指す。
かつては、ここが護国神社の本宮であったらしい。もしかしたら、隣の大きな敷地がそうだったのかも。
最後に
照国神社は2回目の参拝。前回は時間的は余裕がなく、拝殿のみの参拝であった。
今回、こうしてゆっくりと境内を散策することで新たな発見があった。そして、その都度、考えさせられた。
奈良や大阪の古社とは違って時代が近いせいか、すごく考えさせられる神社であった。
そして改めて思うのは、神社とは、お願い事をする場所だけではなく、国の繁栄を祈りつつ平和に感謝する場所なのだということである。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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