若宮商工稲荷神社|中央区|太閤さんと五代友厚ゆかりの神社。
若宮商工稲荷神社は、大阪市中央区本町橋にある「大阪商工会議所」の南隣にひっそりと鎮座するお稲荷さんである。
商工会議所が管理しているのだろうか。綺麗に清掃され整然とした印象。気持ちのいい神社だ。
NHK朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じた、幕末の薩摩藩士にして大阪産業界の近代化に尽力した「五代友厚」ゆかりの神社として、大阪商工界だけでなく幕末明治維新ファンの注目も集める神社であるとか。
若宮商工稲荷神社について
若宮商工稲荷神社 概要
- 所在地 大阪府大阪市中央区本町橋2
- 電話番号
- 主祭神 豊受大神、宇迦之御魂神
- 創建年 1538年(若宮稲荷)1965年(若宮商工稲荷)
- 社格 なし
- 公式HP http://www.osaka.cci.or.jp/wakasj/
若宮商工稲荷神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 地下鉄「堺筋本町」 東へ400m
駐車場
- なし
若宮商工稲荷神社の由来
若宮商工稲荷神社は、若宮稲荷神社と商工稲荷神社が合祀される形で、1965年に創建されたものである。
よって、それぞれの由来を紐解くべきであろうと思う。
若宮稲荷神社
天正11年(1583年)大阪城築城の時。豊臣秀吉が「豊受大神」と「火闌降命」を奉祀し、「若宮稲荷神社」と「火闌降天神社」を創建。水土の加護を祈願したのが始まり。
1615年、豊臣家滅亡によって祭祀は途絶えていたが、、、
1724年、それまで大手前にあった西町奉行所が火災の被害に遭い、若宮稲荷神社の隣(現:マイドーム大阪)に移転。これによって人々が集まり、一般庶民の崇敬を受けるようになる。
これで、途絶えていた祭祀も復活し、若宮稲荷神社が再生したのである。
一方、火闌降天神社は火災によって無くなってしまっている。
商工稲荷神社
明治11年9月、大阪商工会議所が産声を上げたとき、その生みの親である薩摩出身の五代友厚が御霊神社の神職を呼び、大阪経済の発展を祈願する奉りを行ったのが始まり。
明治12年、高麗橋あたりに大阪商法会議所が新築された。おそらくは、この時に商工稲荷が創建されたと思われる。
明治24年、商工会議所が高麗橋から堂島浜に移転。伴って商工稲荷神社も遷宮。
さらに、昭和40年、現在地:本町橋に移転するに伴い、その建設用地に既に鎮座していた若宮稲荷神社に合祀され、若宮商工稲荷神社と社名を改めて現在に至る。
若宮商工稲荷神社の祭神
若宮稲荷神社の祭神「豊受大神」と、商工稲荷神社の祭神「宇迦之御魂神?」が祀られていると思われる。
若宮商工稲荷のご利益
地域の鎮守神として、広く大阪商人の鎮守として、商売繁盛、事業成功、地域の発展のご利益を頂ける。
若宮商工稲荷 参拝記録
大阪市内を南北に走る「松屋町筋」。この松屋町筋と中央大通りの交差点「農人橋」から北へ数分歩いたところに大阪商工会議所がある。
ちなみに車では北に入れない。松屋町筋は南行の一方通行だからだ。
松屋町筋と上町台地
松屋町筋と言えば、大阪では玩具、雛人形、五月人形、花火、かつては結納品などの問屋や小売店が軒を連ねる「おもちゃの街」として有名。東京で言うところの浅草橋か。
松屋町筋を歩いていると気が付くのが高低差。松屋町筋の東側の標高が、かなり高いのである。
そう。これが上町台地。言い換えると、南北に細長い上町台地の西の崖下が、すなわち松屋町筋なのである。
何が言いたいかというと、松屋町筋とは上町断層なのである。
海老鶏麺蔵
いずれにしても大阪商工会議所に向かおう。
農人橋から北に歩くと、まずは「生國魂神社御旅所」が見えるだろう。さらに進むと南北に走る「本町通り」と交差する。
この交差点の角に、海老鶏麺蔵というラーメン店がある。おすすめは海老つけ麺のカレー味。スタンダード味でもいいが、味のインパクトとしては少々物足りないかなっと、私は思うからだ。
12時になると近隣の会社員が押し寄せるため、11時30分に入店するのがベスト。
本町通りを横切って北上すること1分。商工会議所の横に立つ、デカい銅像が目に飛び込んでくるだろう。
この銅像3体。目撃された方は多いと思う。しかしながら、そこから階段が上がったその奥に、神社があることをご存知の方は少ないのではないだろうか。
私がそうだったからである。いつも、ぼーっと歩いているので、、、
3人の会頭の銅像
階段の上から撮影した画像である。
左から順に、五代友厚、土居通夫、稲畑勝太郎。
五代友厚
大阪商工会議所の初代会頭。明治維新後の衰退した大阪経済を復活させた「大阪の恩人」。
NHK朝の連ドラ「朝が来た」において「ディーン藤岡」演じる五代友厚に心熱くしたご婦人方も多かったのではないだろうか。
薩摩藩の出身で、密命を受けて上海で蒸気船を購入したり、ヨーロッパ歴訪で商工業を学んだりと、倒幕一筋の勤皇の志士とは一線を画し、経済を強く意識した中で維新後の日本を作り上げようとした人。
明治維新前後の薩摩の偉人と言えば「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」があげられるが、鹿児島県内における「五代友厚」はこれらの偉人に勝るとも劣らない人気ぶりである。
土居通夫
第7第会頭。愛媛の宇和島藩の出身。脱藩して勤皇の志士となり、大阪に住まう。土佐藩の後藤象二郎軍にて鳥羽伏見の戦いなどで活躍。
剣の使い手である一方、金銭感覚に鋭く、半武半商だったようだ。
本格的に財界に身を投じるようになったのは、大阪で五代友厚の部下になった頃からだという。
大阪電灯・京阪電鉄・大阪土地建物・大阪ガスなどの社長や役員を歴任。大阪経済活性化を支える基盤(インフラ)構築に尽力した、
まさに、「大阪インフラの父」であり、「大阪財界の中興の祖」とも称される。
ちなみに、通天閣はこの土井道夫さんが建設したものらしい。
稲畑勝太郎
第10代会頭。京都出身。
幕末の文久2年に京都は烏丸御池の菓子職人の家に長男として生まれる。なかなかの秀才であったようだ。
明治10年から留学生としてフランスへ。さらにドイツ・スイスなどにも渡り、染色の技術を学ぶ。
帰国後は明治政府からの誘いを断り、故郷の京都において最先端の染色技術の普及活動を行う傍ら、自らも稲葉染料店(現:稲葉産業)を創業し、フランスから染料を直輸入販売を始める。
女学生の袴の色=エビ茶色は、稲葉染と称された。また軍服のカーキ色を開発したのも稲葉染料店である。
染物だけではない。日本で初めて映画を輸入したのも稲葉である。京都の歌舞練場で日本初の映画興行を行ったと聞く。
稲葉勝太郎は、このような海外とのパイプを生かして、大阪経済の国際化・貿易振興を推し進めた功労者なのである。
内参道
銅像前の階段を上がると、このような景色が広がっていた。
敷地の一番奥に、神殿が鎮座しているのだ。
この参道を歩く時、得も言われぬ厳かな空気が全身を包み込むのである。
神殿
すぐ前まで進むことが出来る。二拝二拍手一拝。
風は吹かなかった。。。
神額
神様から見て、左に若宮稲荷、右に商工稲荷が祀られていることがわかる。ちなみに、左のほうが格上とされる。
最後にもう一度、階段上で振り返って一礼しよう。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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