御霊神社|大阪中央区|ご利益は禊祓と子孫繁栄。瀬織津姫を祀る大阪の聖地

2018年2月8日

御霊神社は、大阪市中央区淡路町に鎮座する神社。その起源は、平安時代の天皇即位翌年に行われる「八十島祭」の祭祀場。由緒正しい古社である。

関西で御霊神社というと、京都の上御霊・下御霊のように「御霊=怨霊」を祀ることでその強力な霊力を守護神に変換するという「御霊信仰」を想像するのだが、、、

大阪の御霊神社は、それとは全く異なる。

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御霊神社について

御霊神社の概要

  • 所在地   大阪市中央区淡路町4-4-3
  • 電話番号    06-6231-5041
  • 主祭神   天照大神荒魂(瀬織津姫神)
  • 創建年       不明
  • 社格    府社
  • 公式HP   http://www.goryojinja.jp/

御霊神社 アクセス

MAP

最寄り駅 

  • 淀屋橋・肥後橋・本町から徒歩5~6分程度

駐車場  

  • 境内に数台

御霊神社の祭神

天照大神荒魂、津布良彦神、津布良媛神、応神天皇、源正霊神の五柱を祀る

天照大神荒魂

天照大神の荒魂といえば、伊勢内宮の別宮「荒祭宮」に祀られる神で、正宮「皇大神宮」と並ぶほどの格式を持つ。

当社では天照大神荒魂を「瀬織津姫命」と明言している。

瀬織津姫命は、大祓詞に登場する祓戸四神の筆頭で、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す役割を担っている。

よって、水神・祓の神・滝の神・川の神・海の神などとされる。

津布良彦神、津布良媛神

旧摂津国津村郷の産土神としている。

ちなみに、、、

伊勢の神宮の末社に「津布良神社」があり、祭神は「津布良比古命・津布良比賣命」。同じである。内宮の禰宜である荒木田氏との関係が深いとされる。

そちらでは、田野の水の神として祀られているようだ。

応仁天皇

第15代の天皇で、八幡神社に祀られる。八幡大神とも。

天照大神と同じく、皇祖神とされている。

平安末期、源氏が篤く信仰。八幡神の守護のお蔭か、源頼朝は武門の棟梁「征夷大将軍」となり鎌倉幕府を打ち立てた。後世、武将を中心に「戦勝の神」として信仰を集める。

源正霊神

源正霊神は、平安後期に相模国鎌倉を領した鎌倉氏の「鎌倉権五郎景正」の神号である。平景正とも。

源義家(八幡太郎義家)が起こした後三年の役の際、義家方の先鋒として従軍。右目を射抜かれながらも奮闘したという強者である。しかも当時16歳。

平安後期の創建と思われる鎌倉市にある御霊神社は、関東平家五家の始祖であるところの、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の五氏の霊を祀っていた。

五霊を祭る神社で「御霊神社」後世、その五霊が鎌倉景正一柱に集約されたという。

学業成就、必勝招来、眼病治癒の神徳があるとされる。

御霊神社の創建

八十嶋祭、圓神祠の時代

平安時代の大阪は、大阪湾が現在の平野部に深く入り込んでいた。

淀川と古大和川が現在の大阪城の東で合流し、その深く入り込んだ湾に流れ込む。

これらの二本の大河が運ぶ大量の土砂によって、河口には多くの島や中洲が形成されていたという。そして、これらの多くの島々をさして「八十嶋」と称した

そのような八十嶋の一角に「圓江」(つぶらえ)と呼ばれた円形の入り江があった。

神社由緒では、この「圓江」が平安時代に行われていた「八十嶋祭」の舞台であるとする。

八十嶋祭とは・・・

天皇の即位儀礼の一つで、大嘗祭の翌年に大阪の難波津において新天皇の日本統治の証をたて、御代の末永からんとことを祈願する祭りである。 

難波の津に祭壇を設け、神に沢山の供物を捧げる。そして内侍(女官)が天皇のお召し物を西の海に向かってヒラヒラと振り禊を行う。

祭りが終わると供物を海に流した。

八十嶋祭の主祭神は、生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)が知られ、これは生國魂神社の祭神である。

その他には、住吉四座、大依羅神四神、海神二座・垂水神二座・住道神二座にも、幣帛が供えられたとされている。

そして、その祭壇が設けられたのが「圓江」であったと伝わる。「圓江」は、新天皇の諸々の禍事、罪、穢れを祓う場所だったといえよう。

そして、いつのころか、圓江の祭場に祠が建てられた。「圓神祠」である。これが御霊神社の起源とされる。

摂津西成郡圓神祠、今稱御霊古今秘注云、堀江東有澤廻一萬歩許名八十嶋頭といえり、今大阪に属す。(倭訓栞より抜粋)

天照大神荒魂(瀬織津姫神)が祀られている。実にふさわしい場所だと思う。

それは、瀬織津姫神が祓いの神であり、罪や穢れを川から海に流してくれる神だからだ

船場に遷宮 圓江神社から御霊神社へ

圓神祠は圓江神社と名を変えて、、、伏見桃山時代。

大坂は豊臣秀吉の本拠となり大きく発展。圓江神社も全国の諸大名から深い信仰と寄進を集めるようになった。

そんな中、後に鹿野藩初代藩主になり津和野藩の祖ともいわれる「亀井茲矩」が大阪城下の邸宅の一部を寄進し圓江神社を遷宮(1590年)

そのとき、すでに邸宅内に祀られていた「源正霊神」と八幡神社を合祀し一時「五郎の宮」と称されたが、後年圓御霊と改称。「ごろう」が「ごりょう」となったわけだ。

寛文年中というから4代将軍徳川家綱の頃だろう。圓御霊は御霊神社と改称。1696年には御霊大明神を贈号された。明治に入り仏教色が排除され現在の御霊神社となるわけだ。

御霊神社のご利益

神社発表のご利益は、なかなかもって欲張りだ。

開拓、治水、生産、商業、文化、生命、厄病平癒、生活、交通、安産の守護神として仰がれ、特に厄除け、縁結び、諸事円満成就、開運招福、商売繁盛、夫婦円満、子孫繁栄の神様として格別な尊崇を受けています。

御霊神社HPより

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御霊神社の参拝記録

地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅を下車し一番南の出口から出る。さらに南へ300m歩き「平野町3」の交差点を右に(西に)折れると、神域が見えてくる。

これがおそらく一番近いルートだと思う。

車でお越しの場合は、「平野町3」に広いコインパーキングがある。そこに駐車するのがよろしいかと。

境内にも駐車場があるが、鳥居を車でくぐることに、少しばかり抵抗感を感ずるのだ。

赤い重厚な安定感のある鳥居である。

鳥居は真東を向いているが、内参道は少し北側に振れている。拝殿・本殿も、少し北に振れている。

内参道の振れ角度と、拝殿・本殿の振れ角度が、これまた微妙に違うのだ。気になる。。。

東宮

東宮は合祀殿といった様相だ。多くの神々が祀られている。

  • 皇大神宮。>>> すなわち天照皇大神。日本の総氏神で太陽の女神とされている。
  • 恵比寿神社。>>> これは明治39年に合祀されたという伏見町に鎮座した五福恵比寿神社だろう。ご神体の黄金の恵比寿像が収められていると聞く。もちろん、商売繁盛の神だ。ちなみに、伏見町は呉服問屋の町。呉服と五福。ここでも掛けられている。
  • 猿田彦神社。>>> 道開きの神。開運の神。天孫降臨の際に瓊瓊杵尊の道案内役を買って出た伊勢の国つ神「猿田彦命」を祀る。
  • 摂社12神社 >>> 12の神社は次の通り。祭神名は明かされていないので想像である。
  • 水神社:水波能売命などの水の神が祀られているのだろう。
  • 大雷社:伊邪那美命の頭に生まれた大雷神を祀るか。雷神の総称として祀るのか。
  • 龍神社:龍神は多すぎてめぼしもつかない。
  • 住吉社:住吉大神を祀ると思われる。
  • 菅原社:菅原道真公を祀ると思われる。
  • 加藤社:加藤清正公しか思いつかないのである。
  • 多賀社:伊邪那岐命、伊邪那美命を祀るとみた。
  • 春日社:武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神だろう。
  • 事平社:大物主命を祀ると思われる。
  • 稲荷社:宇迦之御魂神か倉稲魂神ま祀られているはずだ。
  • 竈戸社:火の神が祀られていると考える。
  • 戸隠社:天手力雄命だろう。

拝殿前の結界

拝殿に向かうわけだが、このような結界がある。ここを通ってもよいのか判断に困る。

「立入禁止であれば結界の注連縄はもっと下のほうに張るだろう。」との考えにおいて、私はここを突き進んだ。

拝殿

鉄筋コンクリート製の朱色と黒色と金色のコントラストが美しい拝殿である。女神が主祭神であることを再確認するわけだ。

二拝二拍手 天津祝詞 一拝。

本殿

こちらの本殿は、錣屋根・入母屋造(しころやね・いりもやづくり)という建築様式である。

境内社

この狭いスペースに、松之木神社・大国社・不動明王が祀られている。

松之木神社

松之木大神、朝吉大神を祀るという。画像にはないが、この手前に狐が鎮座していたので、こちらは稲荷神であることがわかる。五穀豊穣、商売繁盛

大黒社

依り代の磐座を直接参拝する方式。大国主命を祀っている。

縁結びのご利益が期待されるのである。

不動明王像

松之木神社と大黒社の間に、ちょこんと祀られている不動明王。なぜ?

ご神木 肌守りの木

社務所前のご神木は、「肌守りの木」と称される。

その由来は、、、

第二次世界大戦の大阪大空襲で被災したご神木の中において、この楠木だけが焼け焦げた状態から再生したという。

当時、参拝者のやけどが回復したという言い伝えもあり、以来、美肌の救世主と信仰をあつめるらしい。

「拝むと肌によい」「幹に手を触れて祈れば、より一層のご利益がある」ということで、オフィス街の隠れたパワースポットとして注目を集めているそうな。

獅子の岩

特にどうこうないのだが、確かにライオンに見えるので、撮影しておいた。

さて、最後に、御霊神社の起源とされる「圓江神社」跡地へ向かうことにする。

圓江神社(楠永神社)

御霊神社を後にして、西へ歩く。阪神高速の下をくぐって四橋筋に出る。

靭公園内に入ろう。そしてバラ園に寄り道していただきたい

バラ園

2月なので、バラなどない。寒々しい光景と思われるであろう。

がしかし、この場所(撮影している私が立っている場所)から画像右手に移っている滝まで、磁場が違う?と思われる感覚に襲われる。

ボワーンとした空気、血管が膨張するような感覚。いわゆる高圧電線に近寄ったときの感覚だ。

さて、そのまま西へ歩き、なにわ筋を横断する。御霊神社からここまで、15分程度。

楠永神社

なにわ筋に面して交番があり、その交差点の角に楠永神社がある。

この場所は、江戸時代には「靭海産物市場」があったという。1624年に開かれた海部堀川という運河には、人工的に作られた「永代浜」という船着き場があり、海産物の集積地となってたということだ。

楠永神社の裏

ちょうど、楠永神社の裏手にご神木の楠がある。この楠は、永代浜が作られたころからここにあったと伝わる。となると樹齢400年弱。

昭和3年、河川の護岸工事の際に、この楠の根元から「白蛇」が現れた。人々は畏れて埋めなおした。

すると、これを聞きつけた多くの人々が訪れるようになったため、地域住民が神祠を創建した。そ

れが楠永神社であり、「白蛇」とともに2本の楠の神霊を「楠永大神」と「楠玉大神」と称して祀ることになったという。

御霊神社跡

楠永神社の右隣に、ひっそりと「御霊宮史蹟」の碑が立っている。

実は、圓江(円形の入り江)御霊神社の前身「圓神祠」の場所はよくわからないのだ。このあたりだろうということだが。。。

となると、私はバラ園が気になるのである。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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