弓削神社|式内大社| 物部氏と弓削氏の氏神様。浄化のパワースポットである。

2016年11月2日

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大阪府八尾市弓削と東弓削に鎮座する式内社の大社。枚岡神社、恩智神社に次ぐ大社であったという。

このあたり一帯は弓造りの技術集団である「弓削氏」の本拠地であった。旧大和川(現:JR大和路線)の北岸を西に行くと、矢造りの技術集団である「矢作連」の本拠地:矢作神社がある。

さらに旧大和川沿いに西へ行くと「物部守屋宅跡」かも?と言われている渋川神社があり、さらにそこから直角に曲がり北向きに流れを変える旧大和川を北にいくと、物部氏宗家の本拠があったとされる東大阪市衣摺にたどり着く。

物部守屋の母が弓削氏の阿佐姫であることなどからもわかるように、物部氏宗家は近隣の有力氏族と姻戚関係を結び、弓・矢などの武器の供給を受けることによって、強力な戦闘集団作り上げることができたのだろう。

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弓削神社について

東弓削神社 概要

  • 所在地  大阪府八尾市東弓削1丁目
  • 電話番号  
  • 主祭神  饒速日尊・宇麻志麻治命・天照大御神、ほか
  • 創建年    不明
  • 社格   式内小社
  • 公式HP   なし

東弓削神社アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR大和路線「志紀駅」徒歩5分

駐車場

  • なし

弓削神社の創建

創建年代は定かではないが、800年頃の創建と伝わる。

称徳天皇の寵愛をうけた道鏡のために天皇が造営した「由義宮」には、氏寺の弓削寺(竜華寺)と氏神の弓削神社が創建されていたのではないかと思われる。そうなると760年頃か。

その後、村が東西に分離されるに伴い神社も東西に分離した。

江戸時代の文献に、旧大和川(現:JP大和路線)をはさんで東西二か所に社殿を持ち、この二つの社殿を合わせて弓削神社としていたという記録がある。

「延喜式」神名帳には、「河内国若江郡 弓削神社二座」とある。何を指して二座としているのかは不明であるが、東弓削神社の所在地が旧若江郡、西弓削神社の所在地が旧志紀郡であるがゆえに、延喜式当時は東弓削神社一社であった可能性がある。

弓削神社の祭神

祭神は、次の通りである。

東・西の弓削神社の共通の祭神

饒速日尊
物部氏の祖神として祀られている。先代旧事本紀によると、十種神宝(とくさのかんだから)を携えて、ニニギ尊に先立って降臨した天孫。河内国から大和国に進出し、神武天皇が大和入りする以前から大和国に君臨していた王とされている。
宇麻志麻治命
物部氏の祖として祀られている。穂積氏の祖神でもある。古事記によると、叔父のナガスネヒコを殺して神武東征を助け、さらに物部を率いて皇城の警護を行ったとされる。十種神宝を神武に献上し天皇・皇后の鎮魂の呪術を行ったのも、この宇麻志麻治命とされている。というわけで、その後の物部氏の繁栄は宇麻志麻治命の功績によるところが大きいと考える。
天照大御神
言わずとしれた、皇祖神であり日本国民の総氏神とされている。太陽神である。しかし、古代においては、男=陽、女=陰とされていたことから、太陽神である天照大御神が女神であることに異を唱える説も多くある。創建当初からこちらに天照大御神が祀られていたのであれば、男神の太陽神を祀った可能性もあると思うが、どうやら昭和初期に近隣の天照皇大神社を合祀したとのこと。深く考える必要はない。

東弓削神社だけの祭神

天日鷲翔矢命
弓削氏の祖神として祀られている。同時に天日鷲翔矢命は阿波忌部氏の祖神でもある。
一般的には「お酉様」として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている神である。この神が弓削氏の祖神とは驚きである。
彌加布都神、比古佐自布都神
物部氏の祖神として祀らてれいる。平田篤胤によると、この両神の亦の名は「経津主神」であり、矢作連の祖神なりとある。
経津主神は、春日大社や香取神宮に藤原氏の氏神として祀られているが、本来は物部氏の氏神であったものを藤原氏の勢力拡大にともない自らの氏神として取り込んでいったと言われている。

その他、東弓削神社には、高魂命(高皇産霊神)や菅原道真公も祀られている。

弓削神社のご利益

鎮魂祈願、病気平癒、健康長寿、諸願成就、商売繁盛のご利益がいただけるとされる。

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東弓削神社 参拝記録

弓削神社は東西とも住宅密集地にあり駐車場がない。電車と徒歩でアプローチされることをお勧めする。やむを得ず車でお越しにある場合は、JP志紀駅前のコインパーキングに駐車されるのがよいと思う。

まずは東弓削神社にむかう。駅の北側すなわち大阪方面に向かって右側へ進むことになる。

鳥居

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「式内大社 弓削神社」の標柱が燦然と輝いている。

境内は極めて狭い。見たところ、摂末社も無い。

拝殿

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遠景で申し訳ない。こちらの拝殿は、割り拝殿である。左右に小規模であるが部屋が設えてある。

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二礼二拍手一礼。すると頭上をプロペラ機が通り過ぎていく。饒速日尊は「航空の神」ともされているのだ。神社での祈りの最中に起こる現象は、すべてが必然なのである。偶然はない。

本殿

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バランス的に屋根が大きすぎるのでは?と思った。

ご神木の切り株

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なんだかわからないが、ご神木であっただろう痕跡がある。

凄い木

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こちらの木。根の張り方というか浮き上がり方というか、とにかく物凄い迫力である。それこそ、トトロの木のようである。前に立つとそのパワーに圧倒される

本殿横の稲荷社

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摂末社が無いと思っていたが、本殿域の壁にめり込むように「稲荷社」が鎮座していた。商売繁盛のお稲荷さんは、いつもどこかにいらっしゃる。

かつて、河内大社と呼ばれたころとは比べものにならないぐらい縮小されてしまい、今や「村の鎮守の神様」といった風情である。しかし、小さな遊具付きの公園が隣接されており、祭りは盛大に行われていると聞くと、地域に密着した神社として生き残っているのであろう。

東弓削神社をあとにして、西弓削神社に向かうことにする。

西弓削神社

一旦、駅まで戻って線路をくぐり反対側に出る。国道25号線を横断して飲み屋街の細い道を入っていくとすぐに見つかるだろう。

鳥居

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こちらの標柱には「式内 弓削神社」とある。式内大社となっていない。

鳥居をくぐると澄んだ空気が流れている。すぐ近くに交通量の多い国道25号が走っているとは思えない空気である。

手水舎

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こちらの水口は龍である。龍は極めてありふれた水口なのだが、こちらの龍は一味違う

どこが違うかというと、、、

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ちゃんと、尻尾までついているのだ。顔つきもマーライオンっぽい感じでユニークだと思う

微妙にカワイイのだ。

拝殿

鳥居から拝殿まで摂末社が無いので、直接本殿に参拝することにする。

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二礼二拍手。天津祝詞。こちらの拝殿、よく見ると鉄筋コンクリートのようだ。拝殿の扉や幣殿から本殿へ出る扉はガラスサッシが入れてある。これは真冬の御祈祷も温かいだろう。

二礼二拍手。天津祝詞。一礼。空気がますます澄んでくるのがわかる。

次に、本殿の右手に摂社が三社鎮座している。

天満宮

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菅原道真公を祀る。もちろん学業成就・合格祈願の神であろう。

金刀比羅神社

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大物主大神を祀っていると思われる。崇徳天皇も祀られているのかいないかはよくわからない。

摂社の中では、こちらが最も強いパワーを感じた。

猿田彦神社

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猿田彦神を祀る。道案内の神とされる。

背が高くて(7尺=210cm)異様な風貌から赤鼻の天狗などと言われているが、赤い顔・大きな鼻・大きな体と言えば、インディアン。

当時の日本には様々な民族が渡来していたと思われる。中東アジアから東アジア、ポリネシアなどが多かったのだろう。そんな中、アメリカ先住民がやってきていてもおかしくはないと思うのは私だけであろうか。

稲荷神社

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こちらにも稲荷大神がいらっしゃる。稲荷大神と言えば、京都の伏見稲荷大社。秦氏の氏神である。

日本国中に神社という施設を広めたのが秦氏。であるからこそ、神社には稲荷社がくっついているのだ。というのは私の勝手な想像なのだが。。。

延命水の井戸

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本殿の右手奥に「延命水の井戸」がある。鳥居前の手水舎と同じタイプの「龍」の水口である。この水を飲めば寿命が伸びるとされているが、今日現在、水は出ていなかった。残念である。

最後に

江戸期の付け替え工事の前まで、現在の長瀬川(旧大和川)は川幅200mをゆうに超える大河であったらしい。

この川が運ぶ肥沃な土壌のお陰で河内国は発展もしたが、流れ来る大量の土砂によって氾濫が頻発。川筋の変化も大きかったと聞く。

そんな大和川東岸を本拠地とした弓削氏。川の氾濫によって村ごと押し流されることもしばしばであった。そこで一部の住民が西岸にも村を作って移住した。そしてそこに、新たな神社を創建した。

西の弓削神社の誕生である。

そこで一つ不思議に思うのは、西の弓削神社には弓削氏の祖神「天日鷲翔矢命」が祀られていないということである。弓削神社と言いながら、物部氏の祭神である「饒速日尊」「宇麻志麻治命」のみである。

このことから想像するに、西に分離した人々というのは、弓削氏の中でも物部氏に近しい人々、あるいは物部氏に同化した人々、さらに言えば物部守屋につながる家系の人々なのではないかと思うのである。

おそらくこれが「東西に分かれた弓削神社」の神社の由来ではなかろうか。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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