葛城一言主神社|奈良葛城|一言でお願いすると叶う「一言さん」
葛城山の東麓に鎮座する葛城一言主神社は、延喜式神名帳に「葛木坐一言主神社」と記載される式内社で、中でも名神大社に列する霊験あらたかな神社である。
地元では「いちごんさん」と呼ばれ、一言の願いであれば何でも聞いてくれる神様として親しまれている。
参拝当日も多くの家族が七五三のご祈祷を受けられており、葛城の人々にとって非常に近しい神社であることが窺える。
葛城一言主神社について
葛城一言主神社 概要
- 所在地 奈良県御所市森脇432
- 電話番号 0745-66-0178
- 主祭神 一言主大神
- 創建年 不詳
- 社格 式内名神大社・県社
- 公式HP なし
葛城一言主神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 近鉄御所駅→御所幸町バス停徒歩30分
駐車場
- あり
葛城一言主神社の祭神
現在の祭神は、葛城之一言主大神と幼武尊の2座である。
神名帳には一座とあり、葛城坐一言主神社と記載されていることから、もともとは一言主大神を祀っていたところに、いつの頃からか幼武尊を合祀したと思われる。
葛城之一言主大神
悪い事も良い事も一言で言い放つ「託宣の神」とする。
古事記(雄略記)によると、、、
雄略天皇が葛城山中に狩りに出かけたとき、天皇と同じような装束で同じように伴の者を引き連れた一行に出くわした。
天皇は、「日本国において君主は私一人なのだが、そのような形でいくのは、誰であるか?」と問わせた。
その主は、天皇の言ったままを返した。
天皇は非常に怒って弓を番えて構えると、相手も同じように弓を番えて構える。
天皇は、「ならば、それぞれ名を名を名乗ってから戦おう」と言ったので、
その主は「私は悪い事も一言、善い事も一言、言い分ける神である葛城の一言主の大神だ」と明かした。
このように、一言主神が現人神として現れた様子とその神格を描いている。
その後、天皇は大いに畏まって大刀・弓矢・衣服などを一言主神に贈り、一言主神も喜んで、天皇を麓まで送ったという。
一言主神と事代主神の名が似ているため同一神とする説があるが、私は一言主神は葛城氏が奉斎する神で、事代主神は鴨族(賀茂氏)が奉齋する神と認識する。
一言主神は葛城氏衰退ののち、天皇の怒りを買って土佐に流されてしまう運命にあるのに対して、
事代主神は、葛城氏と袂を分かった鴨氏が山城に移住した後に、秦氏との連携でその地位を高め、没落した一言主の神格も併せ持った神へと昇格し、京都の上賀茂神社・下鴨神社へと発展したと考える。
幼武尊(わかたけるのみこと)
前述の神話に登場する21代雄略天皇である。本名を「大泊瀬幼武尊 」(おおはつせわかたけるのみこと)という。
大悪天皇などと呼ばれるほど、多くの人を殺害して天皇の即位。その後も各地の豪族を軍事力によって滅亡もしくは服従させた。
葛城氏の滅亡もその一つである。
となれば、葛城の人々にとっては敵のようなものなのだが、なぜ祀るのだろう。
葛城一言主神社の創建
創建年代は定かではない。
国史による初見は879年の文徳実録。850年に葛木一言主神の神階が正三位に昇格した旨の記載がある。まずはそれ以前の創建であることは間違いないだろう。
この地は一言主神が神降りた場所だと伝わる。
となれば、雄略天皇の御代にはすでに何らかの磐座・神籬があり、葛城山の山の神を葛城氏の氏神として祀っていたのだろうと想像するのが普通だろう。
葛城一言主神社の御利益
「悪い事と善いことも、一言で言い放つ神」これが転じて「一言の願いなら、何でも叶える神」となった。
となれば、これはなんと言っても、一願成就だろう。
しかし、そもそもの神格は「吉凶を宣言する神」であるからして、こういう参拝方法がよいのではないだろうか。
一言で言える願いを祈願したのち、おみくじを引いて、その成否を確かめる。
葛城一言主神社 参拝記録
車でお越しの場合、県道30号線(山麓線)から参道に入るコースが最も走りやすと思う。
緩やかな棚田を両側に見ながら走ると、すぐに二の鳥居が見える。
二の鳥居
これは二の鳥居。一の鳥居は、県道30号線からでなく森脇の集落の中を通って来ると、途中に関門のように立ちはだかるのである。
その鳥居の横をすり抜けて通るのだが、普通車なら横幅一杯ギリギリ。運転に自信のない人は避けた方が無難だろう。
さて、二の鳥居の横をすり抜けると、すぐ右手に10台程度の無料駐車場がある。
さらに奥に進むと左手にも10台程度の無料駐車場があるが、この優しげな参道を歩かない手はない。二の鳥居横の駐車場に入れよう。
蜘蛛塚
二の鳥居の横に蜘蛛塚がある。この一言主神社には、ここも含めて合計3箇所に蜘蛛塚がある。
ここで蜘蛛塚について少しばかり触れておこう。
神武天皇東征もいよいよ終盤。各地の土蜘蛛を平定しがら葛城の高尾張邑(たかおわりむら)に来た。
ここにもまた土蜘蛛がいた。(土蜘蛛とは天皇に逆らう土豪の総称)
ここの土蜘蛛の様子と言えば、身長が低くて手足が長い「侏儒」のようだ。
神武軍は、葛(かずら)のつるで作った網でクモを覆い殺した。よってこの地を「葛城(かずらき)」と名づけたという。
そして、土蜘蛛の怨霊が復活しないように、首、胴体、足を切り離してそれぞれ別に埋めて巨石を置いた。
この中の、足を埋めた場所がこの塚だと伝えられる。
ちなみに、手足が長いとなると、ニギハヤヒ尊の義兄にあたる長脛彦も「長い足」という意味だから「土蜘蛛」なのだ。
社標と参道の石段と紅葉
蜘蛛塚から少しばかり歩くと、いよいよ神域への入り口となる。
高鴨神社の紅葉は豪華で綺麗だったが、こちらの紅葉は上品で可憐な美しさがある。
祓戸社
石段下に祓戸社がある。まずは祓戸社で罪穢れを祓っていただき、本殿に向かうのが神社参拝の礼儀である。
乳銀杏
石段を昇り切ると拝殿があるのだが、まずは乳銀杏。この銀杏、樹齢1200年という。こちらはうってかわって黄葉だ。
枝の付け根付近から気根が垂れ下がっている。これを煎じて飲むとお乳の出が良くなるという言い伝えがある。さすがに煎じるわけにもいかないので、祈願すればよい。
子宝と乳の出が良くなる。
▼これは、八尾市の矢作神社の銀杏の気根
祓所
神聖なる神事に臨むにあたり、ここで身禊を行うのだと思う。
すぐ横にもまた祓戸神社がある。この祓戸社とセットなのだろう。
祓戸神社
またまた登場の祓戸社。
祭神は、瀬織津比売命。大祓詞に登場する速い川の瀬で穢れを流してくれる神と謳われる。
しかしその実、天照大神の后であり、時には天照大神の代理を務めたという大いなる女神であるとする説がある。
天照大神の后?とお思いになるだろう。
この説によると天照大神は男神。そうなると、記紀を編纂した人々の思惑から外れる。
よって、瀬織津姫命は記紀に登場しない。大祓詞に封じ込められたのだという。
一言主神社の拝殿
これが一言主神社の拝殿である。なんと立派な拝殿だろうか。大きな大きな唐破風が目を引く。
ちょうど七五三のご祈祷中であった。女性の神職さんだ。
ちょっとお邪魔します。というわけで拝殿前に進むと。。。
拝殿内に掲げられた鏡
ああ、本来、こうあるべきだ。と思わず声を出しそうになった。賽銭箱の前に立って見上げると鏡が設置されてあり、ちょうど私の姿が映るのである。
人それぞれ、またその時の心のありようによって、鏡に映る自分の姿は変化するだろう。それは、姿そのものが変わるのではなく、見る自分の心が違うから。
良い心でここに立っているか?努力は惜しんでいないか?心に手を当てて考えてみ!
と問われているようで。内在神という概念を感じざるを得なかった。
ここで一言の願いは、なかなか言えるもんじゃない。ある意味、厳しい神社だ。それがいいのだ。自分で自分自身を見つめ直すきっかけになるのだから。
境内社など
蜘蛛塚
二か所目の蜘蛛塚を発見。ここはひと際大きい。
至福の像
ボケ封じらしい。
宝来石
宝来石とは?メノウの原石?わからない。
こちらにも紅葉が。一言主神社は紅葉の名所だったのだ。
一言稲荷神社
祭神は保食神(うけもちのかみ)。食物の神である。
子持石
一言稲荷神社の左わきに置かれている子持石。子宝に恵まれると聞く。
市杵嶋姫神社
市杵嶋姫命と祀る。おそらくは弁財天との習合した、財宝の神・芸能の神だろう。
天満社
菅原道真公を祀る。学問の神。
住吉社
住吉大神が祀られる。住吉三神、海の神である。
八幡社・神功皇后社
一番右が、八幡社と神功皇后社の合祀殿。
さて最後に石段を下りて、駐車場と石段の間に亀石がある。
亀石
役行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石であると伝わる。
最後に
境内に三か所、首・胴体・足をそれぞれ埋めた蜘蛛塚があるとされるが、結局2か所しか発見できなかった。
後日、社務所の方に伺うと、、、
拝殿の奥、本殿横の庭に蜘蛛塚があります。普段は見ることができませんが、大祭の時だけはご覧いただくことが可能ですよ。是非、お参り下さい。
とのこと。聞いてみるもんだ。
葛城氏が祀る神社に、蜘蛛塚が存在する。これは、土蜘蛛の怨霊を封じるためなのか、はたまた慰霊なのか。
あるいは、上古における神社の存在意義を考えたとき、大物主命、大国主命、建御名方命、、、
葛城氏と土蜘蛛の関係については、また後日としよう。
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