少彦名命(すくなひこな)|大国主の相棒で、健康維持にかかわる医草・温泉・酒の神。
少彦名命は、日本の神話に、大国主命の国造りの協力者として登場する、海からやってきた小さな神。海からやってきて、様々な技術を伝授していったことから、渡来系の神だとする説もある。
少彦名命の概要
少彦名命の神名
- 少名毘古那(すくなびこな) >>> 古事記
- 湏久奈比古命(すくなひこのみこと) >>> 出雲国風土記
- 少彦名命(すくなひこなのみこと) >>> 日本書紀
- 小比古尼命(すくなひこねのみこと) >>> 播磨国風土記
- 宿奈比古那命(すくなひこなのみこと) >>> 伊予国風土記
- 少彦根命(すくなひこねのみこと) >>> 先代旧事本紀
少彦名命の神格
- 常世の神
- 穀物の神
- まじないの神
- 医療・医薬の神
- 酒造の神
- 温泉の神
少彦名命の神徳
- 国土安寧
- 産業開発
- 漁業・航海守護
- 病難排除
- 縁結び
- 安産・育児守護
少彦名命の系譜
この両神とも性別は無いとされているため、「父」「母」ではなく「親」とする。
古事記と日本書紀で親が異なるが、いずれも「造化三神」を構成する神であり、神格は非常に高いと言えよう。
天神
いずれにしても、天津神の中においても中核中の中核であるところの造化三神の子であり、大神の手の間からこぼれた神であるがゆえに、少彦名命は「天神」あるいは「手間宮」として祀られてきた。
菅原道真公が天満大自在天神すなわち天神として天満宮に祀られるようになる遥か昔のことである。
少彦名命が祀られている神社(当ブログ内)
▼大神神社摂社 磐座神社 (奈良県桜井市)
▼少彦名神社(大阪市中央区道修町)
▼服部天神社(大阪府豊中市)
▼露天神社(大阪市北区曽根崎)
少彦名命が登場する神話
少彦名命の登場(古事記)
大国主命が御大御前(美保岬)の海岸に立っていると、波間に「天の羅摩船」に乗り、蛾の皮を剥いで作った服を着た神が見えた。
そこで、その神に名を尋ねたが答えない。お付きの神々にも、その名を知るものはいなかった。
多邇具久(ヒキガエル)が「久延毘古なら知っているだろう。」と言ったので、すぐに久延毘古を呼び、神の名を問うと、「神産巣日神の御子、少名毘古那神である。」と答えた。
大国主命が神産巣日神に、その真偽を聞くと、「まさに私の子である。小さすぎて私の手からこぼれ落ちた子だ。その子と兄弟の契りを交わして国造りを行うがよい」と答えた。
久延毘古は「案山子」を神格化した神。足がないので動けないが、じっとそこで世間の様子を窺っているため、物知りなのだ。
よって、智恵の神として大神神社の摂社「久延毘古神社」に祀られている。
国土経営(日本書紀)
大国主命と少彦名は協力し心を一つにして天下を経営する。
国民や家畜の病気を治すための方法を定めた。また、鳥獣や昆虫の害から穀物を守るための禁厭(まじない)の方法を定めた。
このようなことから、生きとし生けるものすべてが恩恵を蒙った。
国土経営の神、農耕の神、医療・医薬の神と呼ばれる由縁であろう。
薬問屋が軒を連ねた大阪市の道修町に、薬の神として祀られている。
我慢比べ(播磨国風土記)
国造りを進める大汝命(おおなむちのみこと)と小比古尼命(すくなひこねのみこと)は、ある日、一風変わった我慢比べをすることになった。
埴(赤土の粘土)の荷物を背負って歩いて行くのと、便意を我慢して歩くのとどちらが遠くまで行けるかというもの。
大汝命は便意を我慢。小比古尼命は小さな体で埴の荷物を背負う。どちらも大変つらい我慢であった。
何日か歩き続けたのち、とうとう大汝命の我慢が限界に達し、その場で大便を漏らしてしまった。小比古尼命はそれを見て笑いながら、自分も限界近かったことを告白。そして埴をその場に投げ出した。
埴を投げ出した岡は「埴岡」と呼ばれ、大便が笹の葉で飛び散った場所を「波自賀」と呼ぶようになり、これらは石に姿を変え今でも残っているという。
国土経営に関して両神の方針が合わないこともあったが、常に話し合い、平和的に解決していった、ということが言いたかったのか。
伊予の湯(伊予国風土記逸文)
神代の昔のこと。二柱の神(大国主命と少彦名命)は、国土経営のために全国各地を巡った。
そして伊予国にやってきたとき、長旅の疲れが出たのか、少彦名命が急病を発した。
心配した大国主命は、豊後の「速水の湯」(別府温泉)を「道後」へと導き、小彦名命を手のひらに載せて温泉に浸し温めたところ、たちまちにして元気を取り戻し、うれしさのあまり石の上で踊り出した。
踊った石には少彦名命の足形が残っているという。
「道後温泉」開湯の逸話であり、少彦名命が温泉の神と言われる由縁である。
ほかにも、玉造温泉、別府温泉、有馬温泉、箱根、熱海、伊香保などなど、多くの有名温泉で、両神あるいは、いずれかの神が伝承として名を残している。
常世の国へ(日本書紀)
大己貴命が少彦名命に言った。「吾らが造りし国は、善くなったと言えるだろうか。」
少彦名命が大己貴命に答える。「あるところは善くなり、あるところは善くなってない。」
この会話は、とても意味の深い意味があるだろう。
その後、少彦名命は熊野の御崎に行き、そこから常世郷に行ってしまった。
また別に伝わるに、少彦名命は、淡嶋へ行き、粟の茎に昇ったら、はじかれて常世の国へ飛ばされたとも。。。
「この会話は、とても意味の深い意味があるだろう。」というのは、日本書紀編纂者の感想である。
古代日本で信仰された、海の彼方の異世界で「理想郷」として観念される。「死後の世界」とも言えようか。または「不老不死の世界」。「竜宮城」も常世の国にあるとされる。
常世の国に渡った神や人物は、少彦名命の他、御毛沼命、田道間守がいる。
大己貴命と少彦名命 の国造りの神話はとても興味深い点がある。
それは、大己貴命は国津神で少彦名命 が天津神であるという点と、少彦名命が常世国に去る前に言った「善くないところもある」という言葉だ。
何故にそこが興味深いと感じたかというと、、、
神話はこの後、葦原中國平定へと進む。 高天原の天神が、大己貴命 (大国主命)に対して国譲りを迫るという神話である。おそらく譲渡ではなく戦だっただろう。
戦には大義名分が必要。大義の無い戦に勝ちは無い。
ではこの戦の大義名分は?それこそが、少彦名命が国造りに参画したという事実である。すなわち、支配権の一部は天神にもあると主張できるわけだ。
さらに「善くないところがあるのは国津神の失策である。よって我々が改善する」という大義も出てこよう。
このように、国造り神話の中に、その後の戦の大義名分がセットしてあったのだと感じたからである。
私の理解はまだまだ赤ちゃんのようなものだが、、、
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