大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
大物主大神 概要
大和の三輪山をご神体とした「大神神社」で祀られている。全国の「三輪神社」もしかり。
また、讃岐の「金刀比羅宮」の主祭神でもあり、全国の金刀比羅宮や琴平社の祭神として祀られている。
大物主大神の神名
- 大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
- 倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
- 倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)・・・「出雲国造神賀詞」
大物主大神の正体・性格
- 大穴持の和魂(にきみたま)・・・「出雲国造神賀詞」
- 大国主命の和魂(にきみたま)
- 大国主命の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)
- 蛇神であり、龍神である。水神や雷神の性格を併せ持つ
- 祟りをなす強力な神
- 好色であった?
大物主大神のご神徳
- 国家の守護
- 稲作豊穣
- 疫病除け
- 酒造り
- 航海守護(金刀比羅宮特有のもの)
など多岐にわたる。祟り神であるが故に、ご神徳も強力と言えよう。
大物主大神の伝承
大物主大神の正体や性格は、記紀の伝承から導き出されたものである。
古事記に記載されている大物主大神の伝承
御諸山の神
大国主命とともに国造りを遂行していた少彦名命が道半ばで常世の国に隠れてしまった。「これから私はどうして国造りをすればよいのだろう」と嘆いていると、海を照らしながらやってくる一柱の神。
その神曰く、「我をよく祭れば、汝とともに国造りをなさん。さもなくば、国造りは難しかろう。」
大国主命は問う、「いかに祭ればよいのか?」
その神曰く、「我を大和の国を青々と取り囲んでいる東の山に祭るがよい。」
この神が、御諸山に鎮座される神様である
この時点では、大物主大神という神名は出てきていない。言い換えると大物主大神ではないかもしれないのである
少彦名命は、大神神社摂社「磐座神社」に祀られている。
神の子誕生
三島の湟咋の娘「勢夜陀多良比売」(せやだたらひめ)が非常に美しかったため、これを見た三輪の大物主の神は一目惚れ。
その娘が用を足しているときに、赤く塗った矢に化けて厠の下を流れる川を流れて来て、その娘の陰部(ほと)に突き刺さった。
驚いた娘は、慌てて矢を抜き床に置くと、その矢は麗しき男に戻る。
大物主大神はこの娘を娶り子をもうけた。
二人の生んだ子の名は「富登多多良伊須須岐比売命」(ほとたたらいすすきひめのみこと)といい、後日、「比売多多良伊須気余理比売」(ひめたたらいすけよりひめ)に改名した。神の子である。
上記は、神武天皇が皇后を選定する神話で、その皇后の出自を紹介する場面で登場する。
すなわち、この「比売多多良伊須気余理比売」が、後年、東征を果たした神武天皇の后となるのである。
これは、天津神と国津神の系譜が合体することを意味する重要な出来事である。
同じく、出雲大社社家の千家国麿さん(当時:権禰宜、現:権宮司)と、皇室「高円宮家」の二女「典子女王」のご結婚は、男女が反対になってはいるものの、まさしく天津神と国津神の合体なのである。
「意富美和之大神」(おおみわのおおかみ)
崇神天皇の御代のこと。天変地異や疫病が大流行し人口が著しく減少した。天皇はこれを憂いつつ神を祭って就寝したある夜のこと。
天皇の夢枕に大物主大神が立ち「この疫病は我の心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ。」と仰られた。
崇神天皇は急ぎ「意富多多泥古」を探し求め、河内の國のミノの村でようやく発見する。
そこで天皇は「汝、誰の子なるか」と問う。答えて曰く「大物主の神が「陶津耳命」の娘の「活玉依姫」と結婚して生みし子は「櫛御方命」なり。その子が「飯肩巣見命」、その子が「健甕槌命」、その子が私「意富多多泥古」なり」
崇神天皇はおおいに喜び、早速、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まった。
この「意富多多泥古」(太田田根子)は、神君、鴨君の祖、すなわち大神氏や加茂氏の祖とされている。
さて、崇神天皇がおおいに喜んだのは、「意富多多泥古」が神の子であることがわかったからなのだが、それがわかった下りと三輪山の由来も、大物主神の伝承として記しておく。
三輪山の大物主大神
玉依姫命はたいへん美しい姫であった。そこへたいへん立派で麗しい男が夜中にやってくる。
そして一緒に住んでいるうちに、何事も無かったのに妊娠した。
姫の父母が怪しんで、「お前は自然に姙娠した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と聞くと、姫は「名も知らない立派な男が夜毎に来て住んでいると、自然に妊娠しました」と答える。
そこで父母はどこのだれかを突き止める策を講じる。姫に「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物の裾に刺せ」と教えたのだ。
教えられた通りにすると、翌朝、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けて、残ったのは三輪だけであった。
その麻を頼りに辿っていくと、御諸山の神の社に留まったのである。そこで神の御子であると知ったということである。
また麻が三輪残ったので、この山を三輪山と呼ぶようになったという。
日本書紀に記載されている大物主大神の伝承
日本書紀には、古事記と重複するな内容もあれば、少しく異なる部分もあり、まったく記載されていない伝承もある。日本書紀にのみ記載されている伝承をご紹介しよう。
倭迹迹日百襲姫命の悲劇
倭迹迹百襲姫命は大物主神の妻となった。しかし大物主神は昼間は来ないで夜だけやってくるのである。
倭迹迹姫命が夫に「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうかもうしばらく留まって下さい。朝になったらうるわしいお姿を見られるでしょうから」と願うと、「では、あしたの朝あなたの櫛函に入っていよう。しかし、絶対に驚かないように」と答えた。
翌朝、櫛笥を開けると、中に美しい小蛇が入っていた。
倭迹迹姫命が驚き叫んだため大物主神は恥じて人の形になり「よくも私に恥をかかせてくれたな。今度は私がお前にはずかしいめをさせてやろうぞ」と言って、空を飛び、御諸山(三輪山)に登ってしまった。
倭迹迹姫命はこれを見上げながら後悔して、腰をどすんと落とした時、箸が陰部を突いて倭迹迹姫命は死んでしまうのである。
姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と名づけ、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったという。
大市墓は箸墓古墳ともいわれ、三輪山の北西に位置する。全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。
大物主大神の正体について
大物主大神の正体については、諸説ある。
- 饒速日尊であるとする説
- 長スネ彦であるという説
- 事代主であるとする説
- やっぱり大国主であるとする説
- 役職名であるという説
などなど。。。
どれも、読んでいると「なるほど」と思う部分もあれば、「そういう解釈でいいの?」「決めつけはイカンよ」「論理が飛び過ぎてやしませんか?」とか、腑に落ちない部分も多々あって、納得できるような説は無い。
当然ながら、私にもわからない。支持したい説はあるし、思いもある。思いはブログのいくつかの記事中に滲み出ているのではなかろうか。
よって、ここでは、この件に関する議論はしないでおこうと思う。
もし私が霊能者で、神様からお話を伺うことができるとするならば、是非とも聞いてみたい案件である。
大物主大神を祀る神社
関西でおすすめの、大物主大神を祀る神社を列記しておく。
▼奈良県桜井市 大神神社
▼奈良県桜井市 狭井神社
▼京都市東山区 安井金刀比羅宮
崇徳天皇とともに祀られている。
▼大阪市中央区 生國魂神社
配神として本殿に祀られている。
▼大阪市中央区 難波神社
境内末社に祀られている。そのパワーがすごい。