増上寺|芝|江戸市中の裏鬼門を守る徳川将軍家の菩提寺。
増上寺は、東京都港区芝公園にある浄土宗の寺院である。
正式名称は、三縁山広度院増上寺(さんえんざん こうどいん ぞうじょうじ)。
江戸城の鬼門を守護する寛永寺と並んで裏鬼門を守護し、徳川将軍家の御廟がある徳川将軍家の菩提寺でもある。
バックには東京タワーがそびえたち、周囲には高層ビルが立ち並ぶという立地ではあるものの芝公園という広大な緑地公園内にあり、まさに都会のオアシスと呼ぶにふさわしい。
増上寺について
増上寺 概要
- 所在地 東京都港区芝公園4丁目7−35
- 電話番号 03-3432-1431
- 山号 三縁山広度院増上寺
- 主祭神 阿弥陀如来
- 創建年 1393年
- 札所 江戸三十三箇所21番
- 公式HP http://www.zojoji.or.jp/
増上寺 アクセス
MAP
最寄り駅
- 都営地下鉄三田線「御成門」「芝公園」徒歩3分
- 都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」徒歩5分
- 都営地下鉄大江戸線「赤羽橋」徒歩7分
- JR線・東京モノレール「浜松町」徒歩10分
- 東京メトロ日比谷線「神谷町」徒歩10分
駐車場
- あり
増上寺のご本尊
阿弥陀如来をご本尊としてお祀りしている。
阿弥陀如来
仏教における如来の一つ。阿弥陀あるいは阿弥陀仏は、「アミターバ=計り知れない光を持つもの」あるいは「アミターユス=計り知れない寿命を持つもの」の当て字である。
そして、阿弥陀如来は西方の極楽浄土を持つ仏とされている。
浄土宗の教義は、
「一心に専ら弥陀の名を称えいつでも何処でも時間の短い長いに関係なく常にこれを念頭に置き継続する事が往生への道である。その理由は弥陀の本願に順ずるからである。」
とされる。
唱える文言が「南無阿弥陀仏」。子供の頃からよく耳にする言葉だ。
阿弥陀仏に南無する=帰依するという意味で、これを唱えることで往生が叶うとされるのだ。
増上寺の開山
もともとは、紀尾井町に建立された「光明寺」という真言宗の寺院であったらしい。
それが1393年に、酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)によって浄土宗に改宗され「増上寺」と改められた。これが開山となろう。
ちなみにこの浄土宗第8祖である「聖聡」の出自はなかなかのもので、父は下総国守護「千葉氏胤」、母は新田義貞の妻という。
室町時代を通して、三河の松平家と「聖聡」やその弟子たちとは縁が深かったようだ。そんなことで、徳川家康公の江戸入府の折、増上寺に立ち寄り「源誉存応上人」と対面した。
これが、江戸における徳川将軍家の菩提寺となるきっかけだったという。
紀尾井から、一時日比谷へ移った増上寺は、江戸城の拡張に伴い、慶長3年(1598年)現在地の芝へ移され、裏鬼門の守護となった。
増上寺 参詣記録
今日は港区芝公園で商談である。早起きをして、まずは氏神様であるところの芝大神宮でご挨拶の参拝をする。
そして、大門をくぐり増上寺へ。自然に足が向くのは必然であろう。
大門
増上寺の総門である。ここから先が増上寺の境内だったということになろう。
三解脱門
増上寺の山門としてそびえたつ、この「三解脱門」。都内有数の古い建造物であり、かつ、東日本最大級の山門だとか。1622年の建立である。
この門をくぐると、三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」から解脱できると説く。
この門で解脱したのち、極楽浄土を主催する阿弥陀如来のもとへと進むのだ。
増上寺 大殿
これが増上寺の大殿(本堂)である。
300年以上にもわたる「南無阿弥陀仏」の根本道場は、太平洋戦争の空襲に遭い焼失。昭和49年に再建された。
とにかく大きい。首都圏では最大級の御堂らしい。
ご本尊 阿弥陀如来
石段を上がったところが本堂。
正面に安置されているのが、ご本尊阿弥陀如来。室町期に造られたものらしい。両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られている。
大殿の裏
将軍家御廟「御霊屋」に向かうため大殿の回廊を通り裏手に回ったときのこと。
ちょうど大殿の裏扉に差し掛かった時、頭の左側すなわち大殿に面した側に痺れが、、、そして、高圧電線に近づいたときのような、全身の血管が膨らむような感覚が、、、
これを何と思うか。人それぞれだろう。
徳川将軍家墓所「御霊屋」
将軍家菩提寺である増上寺には、歴代の徳川将軍15人のうちの6人が葬られている。
2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の6人だ。
さらに、秀忠公の正室「お江の方」や14代家茂公の正室「皇女和宮様」始め、将軍生母正室の錚々たるメンバーが眠っている。
現在は大殿裏手の「将軍家墓所」内に集められているが、戦災以前は、境内の北側「北御霊屋」と南側「南御霊屋」に分かれて、荘厳で豪奢な霊廟や拝殿を持ったものであった。
それはそれは、日光東照宮に勝るとも劣らない絢爛豪華な細工が施されてあったという。
▼鋳抜門
焼け残った文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)の宝塔前にあった中門を移設したもの。正面の扉に葵の御紋、左右には昇り龍と下り龍を鋳抜いた青銅製の門。
かつては国宝であったが、戦火による損傷で指定を解除された。残念である。
▼御霊屋の内部
入場料500円で、内部に入ることが出来る。
どの宝塔も背が高いだけでなく、その質感からくる重量感が素晴らしく圧倒されるが、その中でも特に「皇女和宮様」の宝塔は青銅製で全体のバランスも美しく、抱きしめたくなるのである。
500円を支払って見学させていただく価値は、十分にあるものだと私は思う。
将軍家御廟「御霊屋」内部の様子の詳細については、別記事にまとめることとする。
是非、閲覧頂きたく思うのである。
安国殿
大殿の隣にある少し小ぶりなお堂が「安国殿」。
この建物は、もともとは戦災で焼失した大殿の代わりに建てられていた仮本堂であった。
昭和49年の大殿再建の折、隣りに移築され、さらには平成23年に改築。美しくなった。
黒本尊
恵心僧都の作と伝えられる秘仏「黒本尊」と称される阿弥陀如来が、安国殿のご本尊。
秘仏であるからして、いつもは厨子の中に隠れている。
画像の仏像は「御前立(おまえだち)」である。いわゆるレプリカ。「御前立」を通して秘仏「黒本尊」に念仏を届けるシステムである。
黒本尊のご利益
徳川家康も信仰篤く、幾多の危機を乗り越え、幾多の戦を勝ち抜いてこれたのも、ひとえに「黒本尊」の御加護のお蔭であると説く。
よって、江戸時代以来、勝運・厄除けの仏様として尊崇をあつめているのである。
西向聖観世音菩薩
鎌倉時代の執権であるところの「北条時頼公」が観音山に辻堂を建て鎌倉街道に向けて、すなわち西向きに安置した石像の観音像である。
子育て・安産に霊験あらたかと伝えれている。
千躰子育地蔵尊
「西向聖観世音菩薩」から「御霊屋」までの境内北側面にずらっと並ぶ地蔵尊たち。これが「千躰子育地蔵尊」である。
子どもの健康と発育を願って祀られている。水子供養的なイメージは感じられなかった。
一瞬、異様にも見えるが、一体一体を見ると実に可愛らしいのである。
赤い帽子と風車。風が通ると風車が「カシャカシャ・・・」と一斉に回りだす。
子を持つ親としては、微笑まずにはいられない。
黒門
現在は増上寺の通用門として使われているが、もともとは増上寺方丈の表門。開発が進む中で通り沿いに移築した。
方丈とは、住持の住居。住持とは「寺の長」。
これはかなり古い建造物で、慶安年間(1648~1652年)に家光公が寄進したものという。
最後に
これらのほかにも、芝公園を囲むように配置された二天門、旧台徳院霊廟惣門、有章院霊廟二天門、御成門など戦災を免れた建築物を見ることが出来る
また、増上寺を守護するために祀られた熊野神社や円山随身稲荷神社、さらには芝東照宮などなど。
見どころがたくさんある増上寺周辺。
これらは、別の記事でご紹介させていただくこととしよう。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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