湯島聖堂|東京文京区|湯島天神と間違えそう。。。近代日本の学問の聖地は孔子廟であった。
湯島聖堂は、東京都文京区湯島にある「孔子廟」であり、かつ「学問所跡」。お茶水駅から聖橋を渡った右手に広がる森林地帯に広がる日本の学校教育発祥の地だ。
地方から来た人の中には、「湯島天神」と「湯島聖堂」を間違えてしまう人がいる。同じ「湯島」であり、同じ「学問の神様」であるから。。。私のことなのだが。。。
湯島聖堂について
湯島聖堂の歴史
豊臣政権末期から江戸時代初期にかけて徳川家康から4代に渡って仕えた儒学者「林羅山」が、3代将軍家光の支援を得て上野の「忍丘」(現上野公園)に私塾を創立したのが始まりである。
この私塾に孔子廟がないことを知った尾張藩主「徳川義直」が資金援助するかたちで孔子廟を造営。「先聖殿」と称した。孔子を学問の先哲(これを先聖という)として祀ったわけだ。のちに「忍丘聖堂」と呼ばれることになる。
羅山の死後およそ30年後の1690年、儒教に造詣の深い5代将軍綱吉が、ややこしいことを言い出した。
- 儒教の振興は国家の事業であるにもかかわらず、その中心が林家の私的な施設であるとは、いかがなものか。しかも尾張徳川家の支援によるものであるとは、けしからん。
- そもそも、忍丘は寛永寺の敷地である。仏教の敷地で儒教を説くのは、おかしくないか?
そこで、神田川の北岸に幕府による孔子廟が創建されることとなったのである。
義直直筆の額を掲げた「先聖殿」の名称を排して、綱吉直筆の文字を掲げ「大成殿」とした。
▼雨に煙る「大成殿」
規模も大きくしたり、なんだかんだと、尾張徳川色を徹底的に排除したようである。
その翌年には、忍丘から孔子像と神位を移し、さらに林家の私塾や文庫も湯島に移され、ここに「湯島聖堂」と称されるに至るのである。
1797年には、私塾のほうも林家を離れて幕府が運営する「昌平坂学問所」となった。
当時の敷地面積は、1万5千坪とも1万6千坪とも。現在の東京医科大学湯島キャンパスの敷地も、当時の昌平坂学問所の敷地であった。
学校教育発祥の地
昌平坂学問所から多くの学者が誕生したのは言うまでもないことであろう。
明治維新の直後、開成所・医学所・昌平坂学問所を統合して大学校を創設した。その後、旧昌平坂学問所であるところの東京本校が廃止されるなどの紆余曲折あったものの、現在の東京大学へとつながっていくのである。
東京本校廃止後、この地には文部省や博物館とともに、東京師範学校(筑波大学)・東京女子師範学校(お茶の水女子大学)が創設された。それぞれ、現在地に移転してきくことになる。
そして、その跡地には現在、東京医科歯科大学や順天堂大学が創立されている。江戸期から現在に至るまで学問の聖地としての機能を果たしているのである。
湯島聖堂 参拝記録
湯島聖堂は孔子廟であるからして参拝という表現でよかろう。
JR神田駅から中央線に乗り御茶ノ水駅で降りる。降りると中央線や神田川に掛かる大きな橋(聖橋)を渡る。
右手前方に石垣と森が見える。あれが湯島聖堂である。
▼聖橋から湯島聖堂を見る
▼渡り切ったところに、入口がある。これは正門ではない。
ここから階段を降りるとすぐ左手にあるのが「入徳門」だ。
入徳門
関東大震災で焼失しなかった、湯島聖堂内唯一の木造建造物である。
セミが鳴いている。
初夏。大阪では「クマゼミ」が最盛期を迎えている。シャンシャンシャン・・・とうるさい。余計に暑く感じる。
しかし、こちらのセミは「ミンミンゼミ」か。ミーンミンミンミン・・・と風情がある。暑さも和らぐというものだ。
大成殿の手水舎
入徳門をくぐると右手に手水舎がある。瓦が赤茶けており、どことなく中国の雰囲気を醸し出している。
意外と水はきれいである。
杏壇門
逆光で雨。実に写りが悪い。
大成殿
こちらも真黒でなにもわからない。
この大成殿前の回廊に囲まれた四角く広い石敷のスペースは、少しく興奮する。神社では感じない雰囲気である。
この雰囲気、なんと表現すればいいのか。。。
▼すこし後戻りして、杏壇門越しに大成殿を見る。
以前の参拝時は、大成殿の扉が開かれており、内部に入れたのだが。。。
調べると、土日は開門しているようだ。中には孔子像があったはずだ。
ひんやりとした空気で、妙に神妙な心持ちになったと記憶している。
杏壇門の飾り瓦
大成殿の屋根にもついている、これらの飾り瓦。
孔子廟ではこのような霊獣が施されているケースが多いらしいのだが、、、
シャチホコのように見えるのが「鬼犾頭」(きぎんとう)という霊獣である。
体は魚、頭は竜、二本の足がある。頭から水を噴き上げているらしく、火災除けの呪いらしい。
その下に獲物を狙うネコ科の動物のように見えるのが「鬼龍子」(きりゅうし)。
獅子の牙に竜の爪。魔よけの呪いらしい。
そして、これらを含む建造物は伊東忠太の設計とのこと。伊東忠太と云えば「築地本願寺」の設計者である。
なるほど・・・
杏壇門の前に生えていた大木
雨が強くなってきたので、杏壇門で雨宿り。ふっと見ると大いな木が生えているではないか。
根元などは、こんな具合。そそられるフォルムである。
そして、この大木の前にコンクリートで固めたスペースがあるのだが、このスペースに立ち大木に近づくと、全身がピリピリする。
面白い。離れると消える。近づくとピリピリ。面白い。元気が湧いてくる感じがする。
おすすめである。
雨もやんだので、参拝を続けよう。
坂道を下り、世界一の大きさを誇る孔子像を拝見することにしよう。
世界一大きな孔子像
画像では伝わらないのだが、大きいのである。威圧感がすごい。仏像などに比べて顔がデカイからかも知れないが、ほんとうに威圧感がすごいのである。
しばらくすると、柔和な顔に見えてくる。味わい深い孔子像である。
絵でも仏像でも、すばらしい、味のある造形物というのは、見る者の心が投影されるのだろう。
だから、毎回違った見え方もするし、ほんの数分間という短い時間であっても、感じ方・景色が変化していくものなのである。
そこに「味」という観念が生まれるのだと、この孔子像を見て思った。
楷の木
この孔子像の手前に楷書の語源となった「楷」の木が生えている。
孔子の木ともいわれる楷の木。
その由来は、孔子の墓所に弟子が楷の木を植えたことによる。そして現在でも、楷の木は植え継がれている。
そしてなんと、ここの楷の木はその孔子墓所の楷の種子を持ち帰って植えた、まさに聖木なのである。
そんな大層な木とは知らず、素通りしてしまった。。。画像もない。。。申し訳ない。
神農廟
敷地の北東の鉄扉の奥に続く石段がある。この石段の先には「神農廟」があるのだが、立ち入り禁止である。
農耕文化を中国に根付かせたり、あらゆる植物を薬草なのか毒草なのかを自らの舌で吟味したという、中国の伝説上の皇帝である。
少彦名命とともに、薬の神として祀る神社が多い。
湯島聖堂 正門
最後に、正門から退出する。
後に、正門から退出する。
湯島聖堂の東側の坂道は「昌平坂」。この坂を上った大通りが「中山道」。すぐそこに、神田明神の鳥居が見える。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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