神社の格式 社格・社号・式内社? 格式を知れば神社参拝が10倍楽しくなる!
神社の鳥居横あたりの石柱や縁起書などに、「式内」「式内大社」であるとか「官幣大社」「郷社」といった文字が記載されているものを目にするだろう。
この名刺の肩書きのようなものを「社格」と呼ぶ。
古代の社格制度、中世の社格制度、近代の社格制度、そして戦後の神社。時代とともに、政治との関係の中で、神社の格付けは変化していき、GHQによる政教分離政策以降、社格制度は完全に廃止されてしまった。
よって現代では「昔はそうだった」という見方になっていると思う。
しかし、かつて国家レベルの危機が発生したとき、国を守るために活躍した神社が確かにあったこと、そしてそれらの神社は格別な扱いで奉祀されていたこと、そしてそういう神社は間違いなく特別に「霊験あらたか」であったこと、これらは、古代人すなわち我々の祖先から連綿と受け継がれてきた、忘れてはならない記憶であり遺産であると思うのは大仰すぎるであろうか。
さて今回は、この「社格」について、まとめてみることにする。
式内社と名神大社
式内社とは
「式内社」とは、平安時代の延喜3年、醍醐天皇の御代にまとめられた「延喜式」の神名帳に挙げられている神社のことを指す。
式の内に掲載されているから式内社である。
では、式とは何か。
「式」とは、律令の細則を定めた法律集のこと。さらに、律令の改正や修正をまとめたものを「格」という。
そのような式の神名帳に記載されている神社であるからして、それは法律により定められた官社であることを意味する。
式内社は、全部で2861社で、祀られる神の数が3132座。
神名帳といいながらも、社名と座数、そして社格と幣帛を受ける祭祀名が列記されているのみで、具体的な祭神名や由緒などは記載されていない。
せめて祭神名は記載しておいて欲しかったと思うのは、私だけではないだろう。
官幣社と国弊社
式内社は、さらに官幣社と国弊社に分かれる。
官幣社は、朝廷の神祇官から幣帛を受ける神社のことをいう。神祇官とは、今で言う中央の省庁のようなもの。中央の省庁から捧げ物を受ける資格のある神社ということになろう。
国幣社は、 国司から幣帛を受ける神社のことを指す。国司すなわち今で言うところの都道府県知事から幣帛を受ける神社である。
おおよそ、官幣社は畿内の神社で、国幣社は地方の神社という具体に大別されるが、もちろん、地方にあっても重要な神社は官幣社に指定された。
大社と小社
さらに、それぞれが大社と小社に分けられる。大小の区分の基準は明確ではななく、その神社の由緒やその当時の社勢で判断されたようだ。
このようにして細分化された社格の社数は次の通りである。
官幣大社・・・198社 304座
官幣小社・・・433社 188座
国幣大社・・・155社 433座
国幣小社・・・2133社 2207座
名神大社(みょうじんたいしゃ)
このように4つに分類できる式内社であるが、さらに特別な神社がある。
名神祭という祭祀を行う神社である。
国家レベルの危機を迎えたとき、あるいは予測できるとき、たとえば長雨による洪水や日照りによる飢饉、政変、疫病などが起こったときに祈願する緊急的臨時的に行われる祭祀を名神祭という。
名神祭を行う神社はあらかじめ決められていて、その指定された神社を名神大社と呼ぶ。全国で203社とも223社とも。
名神祭を行う神社は、祈願の種類によって使い分けられていたようだ。
たとえば、藤原仲麻呂の乱の時は近江の神名大社に奉幣、祈止雨の祈願は畿内の名神大社に、豊作祈願や災害予防は全国の名神大社にという具合に。
また、その中にも順序があったようで、
- 祈雨止雨祈願の場合、まず丹生川上神社と貴船神社に奉幣し、効果が出なければ龍田大社と廣瀬大社を加える。
- それでも効果が出ない場合は、畿内11社へ。
- なおも神験がなければ、山城・大和の山口社と水分社を挟んで、
- 更に畿内名神社へ、、、
と段階的に祭祀を拡大していったことが記録されている。
ここに、畿内の名神大社を列記しておく。特別に強力なご神威を持つ神社であるといわれていた神社リストとなるわけだ。言い換えればパワースポットリストとも言えよう。
関西の主な名神大社の一覧はコチラ ➡ 社格 名神(みょうじん)大社一覧 パワースポットリスト! |
二十二社と一之宮
二十二社とは
平安前期における式内社を重視する方向性は踏襲しつつも、名神大社という役割が消滅し、新たに二十二社の制度が確立されていくいことになる。
二十二社とは、国家的危機・天変地異に直面したときに朝廷が奉幣して祈願した有力な22社の神社である。
名神大社とおなじような位置づけであるが、名神大社は日本各地に分布していたのに対して、二十二社はその大半を京都・奈良の神社が占めている。
中央集権が進んだことによるものであろうか。
そして、二十二社は、その中でも「上・中・下」と3階層に分けられているのが特徴だ。
203社とも223社とも言われている名神大社。であるから、二十二社は選りすぐりのパワースポットリストと考えてもいいのではないだろか。一度は訪れたい神社である。
二十二社の一覧はコチラ ➡ 社格 二十二社一覧 選りすぐりのパワースポットリスト |
一之宮の制定
この頃から、各国で最も有力な神社を一之宮と呼ぶようになる。
国司が国に赴任したとき、国内の神社を巡礼する制度があった。その際に一番最初に参拝する神社とを一之宮とした。
一之宮の設定は地方から始まり、やがて畿内にも広がっていく。しかし、明確な決まり事は無かったので、時代の移り変わりの中で一之宮も変わっていった。
例えば、紀伊国には一之宮と言われる神社が3社ある。。。河内国は枚岡神社が一之宮だが、かつては恩智神社が一之宮であったという説もある。
関西における一之宮は下記の通りである。
- 大和国・・・大神神社
- 河内国・・・枚岡神社
- 摂津国・・・住吉大社、坐摩神社
- 和泉国・・・大鳥大社
- 山城国・・・賀茂別雷神社、賀茂御祖神社
- 丹波国・・・出雲大神宮
- 丹後国・・・籠神社
- 但馬国・・・出石神社、粟鹿神社
- 播磨国・・・伊和神社
- 淡路国・・・伊弉諾神宮
- 紀ノ國・・・日前宮(日前神宮・国懸神宮)、伊太祇曽神社、丹生都比売神社
総社(惣社)
前項にて、国司が赴任して国内の神社を巡礼する制度があったと申し上げたが、これは時間とコストと労力を費やす一大行事であった。交通手段は限られている。今とは違う。
というわけで、平安時代には国府のちかくに、国内の神社の祭神を一つの社殿に合祀してそこをに参拝すれば、国内の神社を巡礼したことになる、すなわち「巡礼省略システム」を考えたわけだ。
その一つにまとめた神社のことを「惣社」という。
神社の祭神を勧請したパターンと、神社ごとまるまる遷座させたパターンもあったと聞く。
- 大和国・・・国府神社
- 河内国・・・志貴県主神社
- 摂津国・・・不明
- 和泉国・・五社総社
- 山城国・・・不明
- 丹波国・・・宋神社
- 丹後国・・・籠神社?
- 但馬国・・・気多神社
- 播磨国・・・射楯兵主神社
- 淡路国・・・十一明神神社
- 紀ノ國・・・府守神社?
近代の社格制度
式内社の権威は次第に薄れ、国家的祭祀を担った二十二社も室町後期の1449年を最後に朝廷からの奉幣は途絶え、その大半は地域の氏神・産土神としての信仰に位置付けられ、もはや社格といった概念は薄れ去ってしまっていたが、、、
明治維新により、王政復古の形で明治天皇を中心とする祭政一致を原則とした明治政府が樹立された。
そのころの日本宗教のスタンダードは神仏習合。
そこで政府は、神仏分離制度で神社を独立させ、さらに延喜式内神名帳に則って、社格を再び整備することにした。
まず、明治元年に氷川神社の祭事を明治天皇の勅祭として行った。近代の勅祭社制度の始まりである。
1945年の終戦時には、以下の16社が勅祭社として指定されている。
- 賀茂別雷神社
- 賀茂御祖神社
- 石清水八幡宮
- 春日大社
- 熱田神宮
- 出雲大社
- 氷川神社
- 鹿島神宮
- 香取神宮
- 橿原神宮
- 近江神宮
- 平安神宮
- 明治神宮
- 靖国神社
- 宇佐神宮
- 香椎宮
- 朝鮮神宮
これら勅祭社も含めて、官弊社・国弊社に分けられ、それぞれに大中小に分解され、さらに別格官幣社というの追加され、第二次大戦後にGHQによって解体されるまで、この社格制度が続くことになる。
社格下の社数は以下の通り。
官国弊社
- 官幣大社 62 社
- 国幣大社 6 社
- 官幣中社 26 社
- 国幣中社 47 社
- 官幣小社 5 社
- 国幣小社 44 社
- 別格官幣社 28 社
民社
- 府社、県社、藩社 1,148 社
- 郷社 3,633 社
- 村社 44,934 社
・無格社 599,997 社
※別格官幣社は、国家に功績を挙げた忠臣・武将・志士・兵士などを祭神として祀る神社
※社格の順位は、この一覧の順序の通り。
※神宮(伊勢の神宮)は、皇祖神ということで、格付けには入っていない。
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