綱敷天神御旅社|茶屋町|都会のオアシスにキタの繁栄を支えた神が鎮まる
NU茶屋町あたりから阪急線沿いに北へ、すなわちカッパ横丁沿いに歩くと必ず目にするであろうこの光景。
周囲はファッションビルなどが建ち並ぶオシャレエリア。その中に忽然と現れる鳥居。こんなところに、、、と思われた方々も多いことであろう。
これが、綱敷天神社御旅社。大阪キタの北のはずれ「茶屋町」に鎮座する神社である。
ちょっと見てみたいけど、この石段を上がるのは勇気がいるぞ、と思われる方も多いと思う。まずは、この記事をお読み頂き様子を探っていただきたい。
さて、御旅所というと、祭りなどの際に神輿に乗って神様がやってくる、いわば別荘のようなもの。
しかし、こちらは「御旅社」。「所」(ところ)ではなく「社」(やしろ)。それは、綱敷天神社の歴史を見ると、納得するところである。
綱敷天神社御旅社について
綱敷天神社御旅社 概要
- 所在地 大阪市北区茶屋町12-5
- 電話番号 06-6371-1586
- 主祭神 菅原道真公(梅塚天神)
- 創建年 不詳
- 社格 なし
- 公式HP http://www.tunashiki.com/
綱敷天神社御旅社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 阪急梅田駅茶屋町口から徒歩3分
駐車場
- なし
綱敷天神社御旅社の祭神
こちらの祭神は「梅塚天神」と称する「菅原道真公」である。
祭りの時だけではなく、いつも祀っているのである。だから御旅社は、独立した神社ようなものなのである。だから「所」ではなく「社」なのだ。
菅原道真公
菅原道真公は、平安時代の文学者にして政治家である。
幼少から類まれなる才能を発揮し、成人してからのその秀才ぶりたるや。宇多天皇に重用され出世街道まっしぐら。醍醐天皇の御代には右大臣にまで上り詰めた。
しかし、左大臣である藤原時平の讒言によって大宰府に左遷。
大宰府への旅路の途中で道真公が留まった場所には、道真公の偲ぶ地名や史蹟などが今もなお残されている。
大宰府にて、冤罪が晴れるのを待ち侘びながら、失意の内に死去。「天満大自在天神」となったとも。
その後、都では道真公を陥れた人々やその身内が次々に死去したり、宮殿が落雷によって焼失したりと、災いが発生。
それを天満大自在天神(道真公)の祟りと恐れた朝廷が、京都の北野に道真公を祀る神社を創建。北野天満宮の始まりである。
その後、全国に天神信仰が広がる。
綱敷天神社御旅社の創建
綱敷天神社の記事と重複してしまうのだが、、、
兎我野の梅の花見
冤罪によって左遷が決まった菅原道真公が太宰府へ下向する途中のこと。このあたりの梅林が美しく咲き誇っていたので、有名な太融寺への参拝もかねて、この地で梅花見をすることにした。
罪人としての質素極まりない旅である。道真公は、立って梅を見ていた。それを痛ましく思った人々が、船を陸につなぎ止める「とも綱」を蚊取り線香のような渦巻き状に敷き、即席の円座を作って、座っていただいたという。
(綱敷の由来)
現在、その綱を敷いた場所の痕跡は無いのだが、昔の絵図には綱敷天神社本宮の少し南、太融寺のそばにある常安寺の境内に「梅塚」として描かれていたという。
梅塚天神社の創建
さて、道真公がこの地を後にする際、道真公誕生にも係わり、誕生後もずっと守役を務め、この旅にも同行していた「度会晴彦」(外宮の神家)以下6人の従者をこの地に留まらせ、自分が京に戻るのを待つように指示した。
そして度会晴彦に「白江」という姓を与えた。
白江氏は、梅見の円座に使われた「御綱」をご神体として、梅の樹の下に社を構えて斎き奉った。
これが「梅塚天神社」の創建だ。場所は、常安寺の境内にあった「梅塚」だろう。
喜多埜天神社に合祀される
西暦993年、道真公の冤罪が晴れ、その証として道真公に「正一位 太政大臣」が贈られた。
時を同じくして難波の喜多埜(北野)にあった社殿(神野太神宮)を再建して、そこに道真公を祀ることになったらしい。
さらには、白江氏が祀る「梅塚天神社」も、その再建された社殿に合祀されることになり、名を「喜多埜天神社」とした。(現:綱敷天神社の本宮)
そして、合祀された梅塚天神社の跡地は「御旅所」となった。
御旅所の遷座
明治に入り、神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動により、御旅所のあった常安寺が廃却され、その土地は国に没収されてしまった。
これが何を意味するかというと、当社由縁の「梅塚」及び「御旅所」を失ったということなのだ。これが明治4年のこと。
しかし地元の人々は「天神様の居場所を用意したい」と強く願う。
そこで翌年、崇敬者によって梅ケ枝町に遷宮し仮の御旅所を造営。
梅ケ枝町は、現在の西天満6丁目あたりらしい。太融寺あたりからだと、だいぶと南に移動したことになる。
再び遷座 そして御旅社へ
さらに数年後、梅田の開発が本格的になったころ、芝田町や茶屋町あたりの市民が道真公を氏神様として受け入れたいとのことで土地を寄進。
市民というよりは、商人だろう。
そして、小規模な祠ではなく一般的な神社と同等規模の立派な社殿を造営して、道真公を迎え入れた。大阪商人のパワーが炸裂したわけだ。
事ここに至り、その規模と歴史を鑑みる中、御旅所ではなく「御旅社」と称することにしたという。
私個人的には「梅塚天満宮」にしてしまってもよかったのでは?と思うのだが。。。まあ、いろいろとあるのだろう。
綱敷天神社御旅社のご利益
菅原道真公は、文道の太祖で、学問の神様であり、冤罪を晴らす神でもある。
綱敷天神社御旅社 参拝記録
阪急梅田駅茶屋町口から出てNU茶屋町に向かう。NU茶屋町からカッパ横丁に沿って少し北に歩くとすぐに鳥居が見えるだろう。
御旅社の社頭
こんな感じ。左右を高いビルに挟まれた一角にある。裏手はNU茶屋町とSTEP茶屋町店だ。左隣はオープンしたての「MIZUNO」。
お兄ちゃんが社標にもたれかかってヘタり込んでケツかる。邪魔だし、欠礼だ。
しかし神前である。そして私も大人である。何も言わずにおこう。
拝殿の画像は階段から落ちそうになるので撮影しなかった。
これでお許しいただきたい。
社名ではなく、ご祭神名が掛けられている。
二拝二拍手一拝。
ふと横を見ると、先ほど社標にへたり込んでいたお兄ちゃんが立っているではないか!ちょっとびっくり。
玉姫稲荷神社
極めて狭い境内であるが、末社がある。御旅所の二枚看板の一つ「玉姫稲荷大神」を祀る。
玉姫稲荷大神とは宇迦之御魂大神であるからして、商売繁盛。それだけではなく、縁結びの神でもあるとする。
伏見稲荷大社の末社に「玉姫大神」がある。そちらから勧請したのだろうか。
梅田の繁栄は「玉姫様」の神力のなせる業だったのかもしれない。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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