三光神社|天王寺区玉造|真田の抜け穴が大人気。中風封じの三光さん。

2018年3月9日

三光神社(さんこうじんじゃ)は、上町台地の宰相山頂上に鎮座する神社である。

この宰相山の隣にある真田山に、大坂冬の陣で大活躍した真田幸村の真田丸があったとされる。よって、境内には真田丸へと続く?トンネル?の遺構などがある。幸村の銅像もあり、幸村ファン垂涎の神社である。

広告

三光神社 参拝記録

片柱の鳥居

北の参道に鳥居が立っている。これを片柱の鳥居というらしいが、ちゃんと柱が二本あるではないか。。。と思いきや。。。

鳥居の前に礎石が二つ並んでいるのがわかるだろうか。

その左側の礎石を見ると、

国家安泰平和祈願と刻まれた石柱がある。

実は、これが戦前までここに立っていた鳥居の柱である。大阪大空襲のときに爆弾によって破壊された鳥居の残骸なのだ。

戦争の恐ろしさや愚かさ、そして平和の尊さを後世に伝えるため、あえてここに残しているとのこと。

そういえば、この三光神社の裏手には広大な陸軍墓地が広がっている。

しばし、我が国のために命を懸けていただいた人々の冥福をば、祈ろうではないか。

すわ、鳥居をくぐって石段を上ろう。

では、本殿域へと進もう。

手水舎

拝殿

ねぶた?が飾られている。なかなか珍しい。

二拝二拍手一拝。

高血圧で高脂血症である私。「中風封じ」は心に刺さる。

普段は個人的な願いは避けるのだが、申し訳ない。祈願してしまった。。。

スポンサーリンク

境内社

石段を降りると左手に鳥居が見える。その先に社が見える。

ここに末社三社が鎮座しているのだ。

末社三社の合祀殿

中央が「武内宿禰社」、向かって左に「野見宿禰社」、右に「主守稲荷社」が鎮座。

武内宿禰(たけのうちすくね)

武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央政権を支えた有力氏族を含め、27氏の祖とされる超実力者で、

景行・成務・仲衷・応神・仁徳の5人の天皇の大臣として、なんと244年もの長きに渡り活躍したと伝わる。

これは尋常ではない。役職名ではないか?とか、実在しない天皇がいるのではないか?そもそも武内宿禰は架空の人物ではないか?とか、いろんな説があるが、私にはどうでもよいことである。

よって「長寿の神」として信仰を集める。浪速七福神の「寿老神」は、この武内宿禰社だ。

野見宿禰(のみのすくね)

野見宿禰は出雲国の勇者で、土師氏の祖

古事記によると、、、垂仁天皇の御代、垂仁天皇の命により、こちらも力自慢で有名だった当麻蹴速(たいまのけはや)と対戦。

蹴りあいの結果、蹴速の腰を踏み折って勝利。蹴速は死んでしまったという。

角力の神として祀られている。

また、当時は貴人の死において殉死の風翔があった。野見宿禰は埴輪を発明し、それを墳墓に捧げることで殉死を廃止するという提案した。

その功績によって土師臣を賜り、以降、土師氏は古墳時代が終わるまで、天皇の葬儀を仕切ることになる。

仁徳天皇社

もともとは、円珠庵に鎮座していたものを、三光神社境内に遷し申し上げたと伝わる。

前述した鎌八幡の円珠庵だろう。

命の木?

この感じは、基本的には遥拝所。そして一般的には伊勢神宮。あるいは神奈備山などを遥拝するのだが、、、

こちらには、遥拝所ともなんとも書かれていないのでわからない。

正面の木の形状が美しいのである。「命の木」といった風情で非常によろしい。

真田の抜け穴

真田幸村公像

真田幸村像が接地されている台座は「真田石」と呼ばれる巨石である。

これは真田家の居城であった信州の上田城から持ち込んだとのこと。

そして、幸村公像の左手にある坑道入口が「真田の抜け穴」とされている地下動の入口。

中を覗くと、、、

抜け道の内部

この通路が大阪城まで続くという。現在の大阪城外堀まで約1kmだ。

西に向かって掘られ、さらに左に曲がっているように見える。。。方向が気になる。

本当に真田の抜け道なのか?

上田城の抜け穴、九度山の抜け穴。知謀策略に長ずる真田家には抜け穴伝説がよく似合う。

では、この横穴は、本当に真田幸村が掘ったものなのか?

大阪城に続く地下道の入口なのか?

攻め手である徳川方の前田勢が真田山攻略を目論んで掘った穴ではないかという説がある。

もし、前田勢の掘った穴だとするならば、この地は真田丸の外側である必要がある。

では、真田丸の場所と規模は?

広島藩浅野家に残された真田丸の絵図によると、、、

これを現在の地図ではどうなるか、

真田丸は東西に二つの郭を持つと言われる。

青色で囲んだ部分が問題で、絵図には「畑」とのみ記されているが、ここを真田丸の東郭ととるかどうかである。

心眼寺のパンフには「ここが東郭」と書かれている。心眼寺は緑色の枠の中、北東の角だ。

となると、緑色の枠の中に東西二つの郭があったということになる。

すると必然的に陸軍墓地から東側すなわち三光神社の場所は真田丸の外側ということになり、そこから抜け穴を掘る意味は無い。

そして、ここ三光神社のある小山は真田山ではなく宰相山という。

宰相といえば、「加賀宰相」と称された「前田利常」

こうなってくると、前田勢による真田丸攻略のための横穴と推察したくもなるというものだ。

真実は、真田丸の消滅とともに消え失せてしまった、、、

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

スポンサーリンク