比売許曽神社|名神大社|大阪市東成区(鶴橋)
比売許曽神社は、大阪市東成区東小橋、いわゆる鶴橋にある神社である。延喜式神名帳に記載されている「摂津国東生郡 比売許曽神社」の論社である。
その比売許曽神社であれば、式内の名神大社という極めて霊験あらたかな神社ということになる。ただし、旧社地はここから西へ800mに位置する「産土稲荷神社」だったと伝わる。
他の論社としては、大阪市中央区にある「高津宮」の摂社「比売古曽神社」が挙げられる。
比売許曽神社の概要
- 所在地 大阪市東成区東小橋3-8-14
- 電話番号 06-6981-0203
- 主祭神 下照比売命
- 創建年 垂仁天皇2年(社伝)
- 社格 村社
- 公式HP
比売許曽神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 鶴橋駅より徒歩3分程度
駐車場
- なし
比売許曽神社の祭神
現在の祭神は、主祭神に下照姫命を祀り、配神に速素戔嗚尊、味耜高彦根命、大小橋命、大鷦鷯命、橘豊日命を祀る。
下照比売命(したてるひめのみこと)
古事記によると、下照比売命は、大国主命と多紀理毘売命(宗像三女神のひとり)の娘とされる。天探女(あまのさぐめ)ともいう。
記紀の本文では、葦原中國平定神話に登場する。大国主命を説得するために2番目に天下った「天稚彦」の妻として。。。
よって出雲系の女神である。
天磐船に乗った天探女(あまのさぐめ)が、この地に降臨したとの伝承から、このあたりを高津と称するようになったとか。
味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
古事記によると、下照比売命の兄。
鴨族発祥の地に鎮座する高鴨神社の主祭神で、迦毛大御神(かものおおみかみ)とも称される、まさに大神である。こちらでは逆に下照比売命が配神として祀られている。
古事記において大御神と称される神は、天照大御神と迦毛大御神のみ。これは当時の賀茂氏の勢力が朝廷に並ぶほどに大きかったということであろうと、私は思うのである。
大小橋命(おおおばせのみこと)
成務天皇の時代に小橋、味原を開拓して本拠とした豪族。
このあたりは上町台地の崖下のような場所で、古代平野川が流れていたか、もしくは河内湖畔だったと思う。
天児屋根命12世の「雷大臣命」を父とし、武内宿禰命の「女木志清夫」を母に持つ。中臣氏、卜部氏、藤原氏、斉部氏は、この子孫とされ、かの「中臣鎌足」は雷大臣命の13世孫とのこと。
大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
16代仁徳天皇の和風諡号である。仁徳天皇は上町台地に難波宮を造営した天皇。
夕刻、その宮殿から下々を見渡すに、炊事の煙が立ち昇っていない様子を見て、民衆の貧困を察し、免税措置をとったという、善政をしいた優しい天皇のイメージが強いと思うが、実は、なかなかもって恐ろしい側面を持つ。
詳細は、こちらの記事の「謎の縣神社」の項をお読みください。(新しいタブで開きます)
橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)
31代用明天皇の和風諡号である。仏教を認めた天皇。
在位2年で崩御すると、後継者争いとなり、ついに物部守屋公VS蘇我馬子&聖徳太子の権力闘争が勃発するのである。
ちなみに、用明天皇の御子のひとりが「聖徳太子」。
比売許曽神社の創建・歴史
社伝によると、、、、
11代垂仁天皇2年、愛久目山(あくめやま)に下照比売命を祀ったのが始まりで、
23代顕宗天皇の御代に、社殿が造営された
と伝わる。
その後、推古天皇の行幸や、清和天皇による従五位の授与を受けるなど隆盛を極め、927年には名神大社に列し、延喜式神名帳に記載された。
その後、盛衰を繰り返すも徐々に衰退し、とうとう天正年間の信長による石山本願寺攻めの兵火によって完全に焼失。
その時、当時の摂社であった牛頭天王社に、ご神体が移されたという。
その牛頭天王社の場所が現鎮座地である。
明治に入り神仏分離のあおりを受け、牛頭天皇は素戔嗚に名を変え配神となり、神社名も牛頭天皇社から比売許曽神社に変えられ、主祭神を下照比売命とした。
延喜式の臨時祭条に
「比売許曽神社 亦は下照比売神社と号す」
とあるため、平安中期には下照比売命が祀らているとの認識があったようだ。
がしかし、、、
古事記の応神天皇記によると、
新羅から逃げてきた娘が難波の津に至り、比売碁曾の社に鎮まった。その神の名は阿加流比売神(あかるひめのかみ)。
との記述があり、
また日本書紀の垂仁天皇紀にも、同じように
新羅から難波の津に逃げてきた娘が比売語曽神社の神となった
とする。
これらから、比売͡許曽神社に祀られる比売͡許曽神は「アカルヒメ」であるという見方もある。
比売許曽神社のご利益
下照比売命のご利益としては、農業振興・子宝・安産・子育てがあげられる。
そしてもともとの主祭神であった素戔嗚尊のご神徳から、強力な疫病除けや厄払いのご利益を頂けると考えられる。
比売許曽神社のご利益
下照比売命のご利益としては、農業振興・子宝・安産・子育てがあげられる。
そしてもともとの主祭神であった素戔嗚尊のご神徳から、強力な疫病除けや厄払いのご利益を頂けると考えられる。
比売許曽神社 参拝記録
冷たい雨が降る2月の朝。近鉄大阪線鶴橋駅のホームに降り立つ。
ホームの一番東(奈良側)の階段を降りる。比売許曽神社に参拝するには、そこが最短距離だ。
改札を出るとそこは、道幅2mとない通路の両側に沢山の商店が立ち並ぶアーケード。昼間でも薄暗い細い通路が縦横に走る。まるで迷路のようである。
この商店街を散策するもよかろう。
千日前通りに出て、東へ歩く。玉津3の交差点の手前を北へ(左へ)。鳥居が見える。
鳥居
締め柱には、「神明如水晶」「神徳如池水」と刻まれている。
鳥居をくぐり、神域へと足を踏み入れる。雨のせいか、寒さのせいか、、、特に感じるものはない。
ぐるっと見渡す。境内は狭い。
古くは名神大社に列し隆盛を極めたというが、その面影はもうここにはない。
拝殿
榊の花のご神紋。花言葉は「控えめな美」「揺るがない」そして「神を尊ぶ」だそう。
神が降臨する依り代として使われる神聖な木。
語源は、古代の人々は、この木は神と人を分ける木、すなわち境木(さかいのき)と考えており、「さかいのき」に「神の木」という意味を込めて「榊」という漢字を日本独自に生み出した。
という説があるが定かではない。
本殿
鰹木の本数は見えないが、千木は外削ぎである???。流造の本殿は覆屋に覆われていて大切に祀られている様子が見て取れる。
境内社
白玉稲荷神社
白玉稲荷といえば、稲荷信仰の総本宮であるところの京都伏見は稲荷山の御膳谷に祀られる白玉大神の「お塚」。各地の白玉稲荷社に祀られる倉稲魂命は、この「お塚」からの勧請とされいる。
伏見の稲荷山の3つのピーク、すなわち一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰は古墳(円墳)であり、これらを巡拝する参道があった。
その参道沿いに人々の手によって多くの石祠などが寄進され、各自が独自の神名で神を祀った。
これらを「お塚」と呼ぶ。一万基以上存在するというが、なんとも異様な光景で足がすくむ人もいる。
大国主社
大国主大神を祀る「大国主社」。主祭神の下照比売命の父を境内小社に祀っていることになる。
こちらは、千木が内削ぎ???。本殿の外削ぎも含めて、違和感を覚える。
比売許曽神社のご神木
社務所の前にご神木がそびえたつ。
最後に
さて、、、久しぶりに感想を述べたい。
神社を参拝していて、常々思うことがある。
神社の雰囲気と神職さんの雰囲気が、およそ同質であるということ。
例えば、
名古屋の白龍社の神職さんの目が怖かった。神社にも凄みを感じた。
橿原神宮でお勤めの方々は、実にフレンドリーであった。神社も、すべての人に対して親しみやすく癒される空気感を持っていた。
大神神社でお勤めの方々は、こう言っては申し訳ないが冷たい雰囲気を持っていた。神社も同じく、優しい雰囲気を醸し出してはいるものの、深いところは冷淡で厳しい空気感を持っていると感じた。
やはり、こちらもそうである。
神職さんと境内で出会ったとき、ご挨拶申し上げたが、あまり良い反応が返ってこなかった。愛想が悪いということではなく「人見知りな性格」といった感じ。
神社もそう。一見さんには近寄りがたい空気感、しかしそれは拒絶的ではなく、無機質な空気感。
しかし、神職さんと同じく「人見知りな性格」であるとするならば、参拝を続けることで、その空気感も変化するような気がした。
これらは、あくまでも私見である。というよりは、私の心の内が反映されているのかもしれないのだが。。。
摂社に比売語曽神社を持つ高津宮の記事はコチラ
阿迦流比売命を祀る神社はコチラ
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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