吉祥院天満宮|学問の神様「道真公」生誕の地に鎮座する、北野天満宮より以前から道真公を祀る神社。
吉祥院天満宮は京都市南区吉祥院政所町に鎮座する、菅原道真を尊崇する朱雀天皇が勅祀した初の天満宮と伝わる歴史ある神社である。
最古の天満宮というと、道真公存命中に祀ったのが始まりとする「生前天満宮」、道真公の乳母が祀った祠(のちに北野に遷座)「文子天満宮」などがある。
こちらは、正式な神社として創建された最古の天満宮という位置づけだろう。
吉祥院天満宮について
吉祥院天満宮 概要
- 所在地 京都府京都市南区吉祥院政所町3
- 電話番号 075-691-5303
- 主祭神 菅原道真公
- 創建年 934年
- 社格 村社
- 公式HP
吉祥院天満宮 アクセス
MAP
最寄り駅
- JR京都線「西大路駅」徒歩15分
駐車場
- なし
吉祥院天満宮の創建
菅原家の誕生
平安京造営に際して入京してきた「土師古人」が、この地に邸宅を構えた。これが創建物語の始まりである。
土師氏(土師宿禰)の祖先である「野見宿禰」は、古墳に生きたまま埋葬されるという「殉死」の慣習を廃止するために「埴輪」作って人や馬の代わりに埋葬するという手法を提唱した。
その功績によって朝廷から賜った名誉ある姓が土師宿禰である。古墳の造営や葬儀儀礼を司る氏族となっていった。
しかし、古墳時代も遥か彼方の昔となった奈良時代後期。土師氏の各一族は、姓の変更を願い出る。拠点とする地名への変更だ。
土師古人は、大和国添下郡菅原邑に拠点を持つ。よって土師宿禰から菅原宿禰へと改姓したのである。菅原氏の誕生である。
吉祥院の建立
古人の子「菅原清公」の時代。
遣唐使に選ばれた「清公」が唐に向かう航海の途中、大嵐に遭遇。その時「吉祥天」が現れ、命を救われた。よってそれ以降、菅原家は「吉祥天」を篤く信仰するようになる。
そして、「菅原清公」もしくは、その子の「菅原是善」によって、邸宅内に吉祥天を祀り「吉祥院」とした。吉祥院という地名の由来である。
道真公誕生
845年「菅原是善」に男子が生まれる。それが「菅原道真公」。18歳までこの地で過ごした。
道真公は、ご存知の通り「冤罪」によって大宰府に左遷となり非業の死を遂げ、都に数々の祟りを及ぼした怨霊となる。
吉祥院天満宮の創建
死後31年目の西暦934年、道真公を崇敬していた朱雀天皇の勅命により吉祥院境内に「道真公を祀る神社」が創建された。
北野の地に「天満宮の前身となる祠」が創建されたのが西暦947年であるから、それよりも古い創建ということになる。
道真公を祀る神社としては、近江の比良宮と並び最古のものであろうと推察する。
吉祥院天満宮の祭神
祭神は「菅原道真公」である。
平安時代の貴族で政治家。実力で右大臣まで昇りつめた大秀才であり、それが学問の神様といわれる所以だ。しかし、ライバルの讒言によって福岡の大宰府に左遷。ほどなく死去した悲運の人である。
死の前にして拝天山に登り、自らの潔白を宣言した祭文を読み上げると、「天満大自在天神」と尊号が書かれた祭文が下りてきたという。
その怨念は凄まじく「祟り神」となった。「日本三大怨霊」の一人とされているほどである。(他、崇徳天皇・平将門公)
後に、怨霊を鎮めるために北野天満宮が創建され、現在ではすっかり「学問の神様」として昇華されたとされる。
吉祥院天満宮のご利益
学徳成就の神
道真公のというか天満宮のご利益と言えば、もちろん「学徳成就」であろう。
受験生の合格祈願をはじめ、資格試験、技能試験、はたまた昇進昇格など「出世の守護神」としても崇敬を集めている。
何といっても、存命中は「右大臣」にまで昇り詰め、死後には最高位の「正一位」「太政大臣」を贈与されたのだから、豊臣秀吉公に並ぶ立身出世の神であろう。
冤罪を晴らす神・いじめを晴らす神
道真公は、冤罪を晴らす神としても有名である。
北野天満宮や大阪天満宮をはじめとする各地の天満宮には、奈良・平安期に「冤罪」で非業の死を遂げた怨霊(御霊と呼ぶ)を末社に祀っている。
天神様に助けを求めてやってくるのかもしれない。
いじめの対象になっている子供たち、いわれのない誹謗中傷を受けてお悩みの方、あるいは冤罪や誤解で降格・転勤・出向を言い渡された方々。
一度、ご近所の天満宮に参拝してみてはいかがだろうか。
吉祥院天満宮 参拝記録
吉祥院天満宮へ行くには、電車であればJP京都線の西大路駅が最寄りとなる。ここから徒歩で20分~30分。バスに乗られるのが良いと思う。吉祥院天満宮前というバス停がある。
車の場合は、西大路十条の交差点が目標。その交差点から西へ、すなわち「御前通り」(おんまえどおり)に入るとすぐに橋がある。橋を渡ったところを斜め右へ。で、またすぐに右へ。
ちなみに「御前通り」は、北野天満宮の前(東)を通るから「御前」と名付けられたと聞く。南北に長い通りで、現在、イオンモール洛南で寸断されているものの、吉祥院天満宮まで伸びているとは、驚きというか、何かの意図を感じずにはいられない。
さあ、突き当りに鳥居が見えていれば正解だ。
幼稚園が併設されていて、朝や昼はお迎えのお母さんの車で、鳥居前は路駐の嵐である。
しかし、この鳥居を左に曲がると、境内に入る入口がある。参拝者の車は境内に駐車可能だ。
神職さんに確認したから間違いない。
拝殿
横に長い拝殿である。
かわいいキャラクタ―がお出迎え。名前は「道真くん」だろうか。「みっちー」だろうか。
二礼二拍手一礼。天津祝詞。
硯之水
拝殿の右横に「硯之水」。道真公が硯をするのに使った水である。字がきれいになるかも、習字がうまくなるかも、勉強が得意になるかも、である。
拝殿の右手に末社がある。
末社5座
右から順番に、
秋葉山
祭神は、秋葉大神という。静岡の「秋葉山本宮秋葉神社」から「火之迦具土大神」を勧請したと思われる。
イザナギ・イザナミの神産みで生まれた「火を司る神」だ。
火は、太古の昔から現代社会に至るまで、生活レベルの向上・産業の発展に大きく寄与してきた、水や日光と同様に無くてはならない要素。
ご利益は、火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛・工業発展。
琴比羅社
祭神は、琴比羅大神とある。「大物主大神」であろうか、はたまた「象頭山金毘羅大権現」であろうか。同一神であるとされるが。
金毘羅大権現はヒンドゥー教のクンビーラ。鰐を神格化した水の神である。
大物主大神はスサノオ命の御子にして日本建国の祖ともされる大いなる神。蛇体とされた。
祭神の変遷について、讃岐の金刀比羅宮の由来書によると、最初は「大物主大神」、中世には本地垂迹説の影響で「金毘羅大権現」、神仏分離で再び「大物主大神」に戻したとしている。
ご利益は、水の神であるがゆえに、漁業航海安全の守護神とされている。また、五穀豊穣、産業振興、平和の神とされる。
吉野社
祭神は、はっきりしない。
吉野の神であろうから、古代民族信仰の発祥の地「大峰山の金剛蔵王権現」、あるいは吉野の総社とされた天河大弁財天社の「吉野坐大神」か。はたまた、大分の「吉野天満社」なのか。
祭神がはっきりしないので、ご利益もはっきりしないのである。
松梅社
おそらくは、松梅院のことを指すと思われる。
松梅院とは天台宗の寺院で、北野天満宮の社僧を務めた三院の1つ。宮寺だ。
そして珍しいことに、この松梅社をはじめとする三院は、菅原家の子孫が世襲したと聞く。
すなわち、この松梅社は菅原家一族を祀る摂社ということにもなろう。
白太夫社
祭神は白太夫神。伊勢の外宮の神官「渡会晴彦」である。若いころから白髪で太鼓腹だったから「白太夫」と言われたとも。
後継ぎを亡くした菅原家に、渡会晴彦が子授けの祈願をしたところ、道真公が誕生したという。その縁で道真公の守役として使えることになった。
よって、ご利益は子宝・安産・子育ての守護神である。
稲荷社
祭神は、正一位 春房稲荷大明神。五穀豊穣・商売繁盛・災難除けの神である。
胞衣塚(えなづか)
垣根の中心にある磐座の下に、道真公の胞衣=胎盤および臍の緒が埋められているという。
子宝と安産のご利益が頂けると信仰を集めている。
吉祥院
こちらが「吉祥院」。この地域に地名の由来となった寺院である。
祭神は、「吉祥天女」である。後年、菅原清公卿、菅原是善卿、観世音菩薩、薬師如来、伝教大師、孔子を合祀する。
ちなみに、吉祥天は道真公の正室「島田宣来子」と習合し、北野天満宮の祭神となっている。
これだけの祭神を祀るのであるから、ご利益は「様々です」と申し上げるしかあるまい。
道真公 産湯の井跡
産湯を使った井戸を再現したものと説明されている。
あまり注目を浴びるに至らなかったと見えて、現在はこの通り草むらの狭間から少し見える程度になっている。
境外末社 弁財天社
境内の外、鳥居の前に鎮座する「弁財天社」。さすがに「吉祥天」と同じ境内に祀るのは憚られたか?
財宝・芸能・美人の神である。吉祥天とかぶる。
それもそのはず、奈良時代までは弁財天と吉祥天は二大美人女神とされ、二神とも信仰を集めてきた。東大寺をはじめ、二神をともに祀った寺院も多かったときく。
時は流れて平安時代。本地垂迹思想において、弁財天は神道の市杵島姫と習合する。宗像三女神を祀る神社(宗像社・厳島神社など)はすべからく祭神名を弁財天に改名しただろう。よって弁財天は全国に広まっていった。
さらには七福神の構成員となったものだから、その勢いはもう止まらない。
一方、吉祥天は習合しきれなかった。もしかしたら、道真公の正室「島田宣来子」が吉祥天と習合してしまったからかもしれない。
そんなことで、吉祥天信仰は弁財天信仰に吸収されていってしまうのである。
そういう意味で、吉祥院では弁財天の祀り方が微妙に難しかろうと思った次第である。穢れにまみれた凡人の考えそうな理屈、笑止の至りである。(私のこと)
鏡之井
弁財天社の右の灯篭の後ろにある井戸。「鏡之井」という。江戸時代には「石原井」と呼ばれていた。
道真公が参朝の際に、水面に顔を写したという伝承から「鏡之井」と名付けられたわけだ。
この水鉢に張られている水の正体、すなわち湧水なのか水道水なのかを知りたいと思ってしまった。誰しも気になるだろう。
微妙に水鉢から水があふれているようにも見える。だんだん、源泉掛け流しの温泉のように見えてきた。
これは飲むしかない。
結論。 「後悔した」と申し上げておくに留めておくべきと心得た。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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