吉田神社|京都|二十二社|伊勢神宮を凌ぐ中世日本神道界の権威。
吉田神社は京都市左京区吉田に鎮座する、式内社ではないが二十二社(下八社)に選定された、霊験あらたかな神社である。近代においては官幣中社、現在は神社庁の別表神社である。
末社の「斎場所大元宮」は、現在は単なる末社であるものの、かつては吉田神道の本拠として、神祇官代として、平安後期から江戸時代までの長きにわたり、日本神道界の権威であった。
吉田神社について
吉田神社 概要
- 所在地 京都府京都市 左京区吉田神楽岡町30番地
- 電話番号 075-771-3788
- 主祭神 建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比売神
- 創建年 859年
- 社格 二十二社・官幣中社・別表神社
- 公式HP http://www.yoshidajinja.com/
吉田神社 アクセス
MAP
最寄り駅
- 京阪電鉄「出町柳駅」から徒歩20分
駐車場
- あり(無料)
吉田神社の祭神
吉田神社の本宮に祀られている神は、建御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比売神の4神である。
建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)
武甕槌命のこと。春日大社の祭神で藤原氏の氏神である。
出雲の国譲りを描いた神話で、高天原から派遣された神。大国主命・事代主命・建御名方命と交渉し国を譲らせた軍神。
伊波比主命(いわいぬしのみこと)
経津主命のこと。春日大社の祭神で藤原氏の氏神である。
出雲の国譲りを描いた神話で、高天原から派遣された神。日本書紀の一書には、派遣に際して、まずは経津主命が選ばれ、武甕槌命が副えられたと書かれている。
大国主命・事代主命・建御名方命と交渉し国を譲らせた軍神である。
天之子八根命(あめのこやねのみこと)
天児屋根命のこと。春日大社の祭神で藤原氏の祖神である。
岩戸隠れの神話において、天照大神をおびき寄せるための祭りを行い、祝詞を奏上した祝詞の神。
比売神
天児屋根命の妻神のこと。春日大社の祭神である。
このように、吉田神社の祭神は、春日大社と同じであることがわかる。
吉田神社の創建
859年、藤原山蔭が藤原北家魚名流一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請して創建。その後、一門に限らず平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。
987年ごろから国家的祭祀が行われるようになり、二十二社の前身となる十九社の一つに列した。
吉田神社のご利益
神社の発表は以下の通り。
- 建御賀豆智命・伊波比主命・・・諸々の災難より逃れ幸福を勝ち取る厄除・開運の神
- 天之子八根命・・・神祇の祖神であり思慮深き学問の神
- 比売神・・・女性に特別の徳を授ける神
- 天之子八根命と比売神は夫婦であるによって、良縁や夫婦和合の御神徳
吉田神社 参拝記録
同志社大学あたりから今出川通りを東へ走る。
百万遍の交差点を右折(南行き)すると、その通りが東大路通り。左右は京都大学の施設だ。
以前は京大名物の立て看板がずらっと並んでいた。一つの風物詩というか、それが景色の一部だった。
最近になって撤去されてしまった。また一つ、思い出に変わっていったのだ。
それはさておき、しばらく進むと「東山東一条」交差点がある。これを左折(東行き)すると、ほどなく鳥居が見える。
鳥居の下はくぐれないので、左側の側道を奥へと入ると右側一帯が駐車場だ。無料である。特に区画が引かれている様子もないので、常識の範囲で適当に駐車する。
「参拝客は社務所に声をかけてください」という看板あり。あとで声を掛けよう。
一の鳥居は、車で通過したため撮影していない。実質的にここからが神域である。
今宮社
鳥居をくぐるとすぐ左に「今宮社」がある。
祭神は、大己貴神・大山祇神・建速須佐之男命。
吉田町の産土神として祀られているらしい。かつては「木瓜大明神」と呼ばれていたそうだ。
須佐之男命の神紋が木瓜紋だからか。
四神石
看板に「四神石」があると書かれてある。
社の周りを、時計と反対廻りで探すと、、、
一つ目、東南の角に「青龍石」。 蛇がとぐろを巻いているような。。。
二つ目と三つ目。手前が北西の角に「玄武石」。亀の甲羅のよう。奥に移っているのが、南西の角にあたるのだが、「白虎石」が見える。
四つ目「朱雀石」が見当たらない。
もう一度、看板をよく見ると、、、
「ひとつは内陣にあり」と書かれていた。
さて、石段を上がって本殿に参拝だ。
なかなか暑い日だったが、ここは別世界のように涼しい。久しぶりにこの感覚を味わった。この石段はGoodである。
そして、この石段の下には活断層が通っている。ここは花折断層の南端部なのである。
そう。吉田山とは、花折断層の活動によって生じた隆起丘なのだ。
断層はパワースポット要素の一つである。
本殿エリア
ここから本宮エリアに入る。
入ってビックリ。工事中ではないか!せっかくここまで来たのに、残念である。
▼足場と保護シートの間から撮影してみた。。。
これは第何殿なのだろうか。。。
春日造りの美しい社殿が4基、整然と並んでいるはずなのである。
二拝二拍手一拝。
神楽岡社
本宮前から山に向かって階段がある。これを上ると「神楽岡社」がある。
大雷神・大山祇神・高龗神が祀られている。それぞれ、雷・山・雨を司る神である。
第五段の一書(七)によると、
この三神は、伊弉諾尊が軻遇突智を斬り、三つに分断したときに現れた神々である。
かつて神楽岡と呼ばれた吉田山に雷鳴轟き雨が降る様を想像するのである。
若宮
奈良の春日大社と同じく、天児屋根命と比売神の御子「天忍雲根命」が祀られている。水徳の神だそうだ。
もともとは、第二殿と第三殿の間に社殿なしで祀られていたが、1647年、こちらに社殿を造営して遷座したとのこと。
春日大社でも、本殿から見て南東の高所に鎮座していたのを思いだす。
竜沢の池
奈良の春日大社の近くにある「猿沢の池」に似せて作られたらしい。雨乞いの神事がここで行われていたようだ。
山蔭神社
上京を一望できる展望のよい高台に、吉田神社の創始者「藤原山蔭卿」が祀られている。
山蔭卿は料理の達人。日本で初めて調味料を使った人。
恵比寿神も合祀されている。
▼山蔭神社から上京を望む
右大文字山の奥に愛宕山が見える。
三社社
山蔭神社を過ぎて、一般の舗装道路の向こう側に「三社社」があった。
- 多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐津毘売命・・・海の神
- 金山毘古命・金山毘売命・・・山の神
- 菅原神・・・知識の神
ここから始まる上り坂は、吉田神道の拠点「斎場所大元宮」が鎮座するエリアへと続くのである。
斎場所大元宮
本宮の南、一層高い場所に鎮座する「斎場所大元宮」。
もともと卜部家(吉田家)にあった社を、1484年に吉田神道の根本殿堂として現在地に造営したもの。
これが本殿。
祭神は、天神地祇八百万神である。「あまつかみ くにつかみ やおよろずのかみ」と読む。
正面の建造物は八角形で、後ろに回ると六角形の後房がくっついている。一般的な神殿とは全く異なる。
大元宮の神殿について
主な特徴は、下記の通り。
- 前面の社が八角形
- 後房は六角形
- 前方の千木は内削ぎで、後方の千木は外削ぎ
- 屋根の頭頂部には露盤宝珠
- 露盤宝珠より前方には、丸木を3本束ねた鰹木が3束
- 露盤宝珠より後方には、角木の鰹木が2本
これらは、吉田神道の理想を形にしたものらしい。
すなわち神道、密教、儒教、陰陽道、道教などの思想を融合させるイメージを建造物で表現したということ。
- 八角形は、陰陽の中間
- 六角形は、陰陽の調和
- 宝珠は、釈迦であり舎利である(密教)
- 内削ぎ・外削ぎは、女神・男神(神道)
- 丸形は陽・奇数は陽
- 四角形は陰・偶数は陰
式内社3132座
天神地祇八百万紙を祀る大元宮を中心として、左右にずらっと建ち並ぶ朱色の社には、全国の延喜式内社3132座が祀られている。
さらに、大元宮の後方には、伊勢の内宮と外宮の神が特別仕立ての社に祀られている。
大元宮の一般公開日
基本的に、中門より内側に入ることが出来ないのだが、下記の日程で公開される。
- 正月の三が日
- 節分祭(2月2日・3日)
- 毎月1日
山中の境内社
というわけで、大元宮を出た私は、さらに坂道を登っていく。
登っていくと途中に「宗忠神社」がある。これは黒住教創始者を祀る神社のようだ。
さらに進むと、お馴染みの赤い鳥居が連なる光景が、、、
これは、間違いなく稲荷社へと続く参道である。
参道を歩くと、こんなものが見えた。
左大文字。京都らしい光景だ。
竹中稲荷神社
これが竹中稲荷社。祭神は、宇迦之御魂神、猿田彦神、天鈿女命神である。
ん~っ。私はこれ以上近づくことが出来なかった。理由もなく怖い。怖すぎる。
後で調べて分かったのだが、この祠の裏山に、さらに奥の宮なる稲荷社があり、そこに至る参道の両側には「お塚」がたくさん設営されているようだ。
そしてその場所は、かつての土葬地帯だったとか。真偽のほどは不明だが。。。
とにかく竹中稲荷周辺には、近づくことがためらわれる、陰気な雰囲気があった。
天満宮
おとなりの天満宮。こちらはお馴染みの菅原道真公を祀っている。
おとなりの怖さが半端なく、鳥居をくぐることが出来なかった。。。
無性に明るい場所に行きたくなった。日の差す方向すなわち吉田山の西麓に出ようと思う。
開けた場所に出た。ちょっとした公園だ。ママ達が子供を遊ばせていた。ほっとした。
菓祖神社
公園から山道を降りると「菓祖神社」に出くわした。
こちらの祭神は、田道間守命と林浄因命。菓子の神として祀られ、全国の菓子職人の信仰を集めている。
田道間守命
11代垂仁天皇の命を受けて、常世国に渡り「橘」を持ち帰った人。
ところが持ち帰る前に垂仁天皇は崩御されており、悲しみに暮れた田道間守命は垂仁天皇の御陵の前で自ら命を絶ったという。
「橘」は果物の祖とされ、当時、果物が唯一の甘物だったため、田道間守命は菓子の祖とされた。
林浄因命
林浄因は、中国の人。奈良の漢國神社の前に住んでいて、日本で初めて饅頭を作ったとされる。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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