御霊屋|増上寺|徳川将軍6人が眠る聖域
御霊屋(おたまや)将軍家墓所は、増上寺境内にある徳川将軍家の御廟である。
かつては増上寺を南北から挟むように広大な敷地を持ち、日光東照宮にひけを取らない豪奢な社殿を持つ大御廟であったが、戦災によって大半が焼失。
今は増上寺の大殿の北西にまとめられている。それが、今回ご紹介する御霊屋(将軍家墓所)だ。
ちなみに、かつての北の御廟跡には東京プリンスホテル、南の御廟跡は芝公園プリンスのチャペルや空中庭園になっているようだ。
御霊屋について
増上寺 概要
- 所在地 東京都港区芝公園4丁目7−35
- 電話番号 03-3432-1431
- 山号 三縁山広度院増上寺
- 主祭神 阿弥陀如来
- 創建年 1393年
- 札所 江戸三十三箇所21番
- 公式HP http://www.zojoji.or.jp/
増上寺 アクセス
MAP
最寄り駅
- 都営地下鉄三田線「御成門」「芝公園」徒歩3分
- 都営地下鉄浅草線・大江戸線「大門」徒歩5分
- 都営地下鉄大江戸線「赤羽橋」徒歩7分
- JR線・東京モノレール「浜松町」徒歩10分
- 東京メトロ日比谷線「神谷町」徒歩10分
駐車場
- あり
戦災以前の増上寺「御霊屋」図
このように増上寺の北東に「北御霊屋」、南西に「南御霊屋」という具合に造営されていた。
「北御霊屋」
「北御霊屋」には、
- 6代家宣公の霊廟に12代家慶公・皇女和宮様・14代家茂公が、
- 7代家継公の霊廟に9代家重公が合祀され、
合計6名の将軍と皇女和宮様が眠っていた。
このように合祀されていった理由は、倹約政策を推し進めた8代吉宗公が、自分自身以降の新たな霊廟造営を禁じたためであるという。
まさに倹約家である。
ここで印象的なのは、歴代将軍の宝塔に肩を並べるようにして和宮様の宝塔が立っていたこと。もっと言えば、夫である14代家茂公の上座に。。。
「南御霊屋」
一方「南御霊屋」には、その広大な敷地に2代将軍「秀忠公」の霊廟と、独立した形で正室「お江」の霊牌所の2棟のみ。その他の合祀は無い。
やはり家康・秀忠・家光の徳川三代は、将軍家の中でも別格だったのだろう。
ひとつ気になるのは、本堂の真裏に「徳川綱重の霊廟」がある。歴代将軍に「綱重」なる人物はいないはずだが、、、これはいったい、、、
綱重公は、3代家光公の子。兄が4代家綱、弟が5代綱吉。綱重公は35歳で亡くなられたため将軍になる機会がなかったが、薨去後に「正一位太政大臣征夷大将軍」が贈られた。よって将軍なのである。
当時の「御霊屋」の様子
当時の「御霊屋」内部の様子を、少しばかりご紹介しよう。
2代秀忠公の奥院内部と宝塔
拝観料500円で頂いた絵葉書である。
秀忠公の宝塔は木造で繊細な彫刻が施されている。モノクロなのが残念だが、それでも豪奢な印象は伝わってくるではないか。
木造であるがゆえに戦火で焼失した。残念極まりない。
6代家宣公霊廟の拝殿内部
こちらも絵葉書。あたり一面に施された実に緻密な彫刻と装飾の数々。そして至る所に見ることが出来る「規則性の美」。この世の物とは思えないのである。
現在の「徳川将軍家墓所」
これらの荘厳な霊廟は昭和20年の空襲によって焼失。多くの国宝も。何度も言うが、残念極まりないのである。
現在は、安国殿の裏手に、こじんまりとまとめられている。当時の荘厳な霊廟はなく、御廟というよりは「墓地」といった印象だ。
というわけで「御霊屋」ではなく「徳川将軍家墓所」が現在の正式名称になっている。
では、現在の「徳川将軍家墓所」をご紹介していこう。
鋳抜門
墓所の正門であるところの「鋳抜門」。旧「文昭院殿霊廟(六代将軍 徳川家宣公)」の宝塔前にあった「中門」を移設したもの。
青銅製で、扉には「葵紋」両脇には「昇り龍と下り龍」が見事に鋳抜かれている。荘厳というよりは重厚な印象である。
銅製であったが故に焼失を免れたのか。とは言え、戦災前は国宝であったが取り消されたという。残念極まりない。
墓所の全景
見学料500円を支払うと、中に入ることが出来る。プラス数枚の絵ハガキと戦前の増上寺全景を表した絵図が頂ける。コストパフォーマンスは高いと私は感ずる。
小学校のプールぐらいの面積だろうか。正面に2代秀忠公と6代家宣公の宝塔が並べられ、その他の宝塔は左右に並べられている。
戦前の「御霊屋」に土葬されていたご遺体は、昭和50年代の都市整備に伴い掘り起こされ、桐ケ谷で荼毘に付され、こちらに改装された。つまり、この宝塔の下にお骨が埋葬されているということなのだろう。
主な宝塔
では、いくつかの宝塔をご紹介していくこととする。メインどころと言えば、南御霊屋の広大な敷地に祀られた「2代秀忠公」と、北御霊屋に最初に祀られたであろう「6代家宣公」となろう。
2代秀忠公・お江の方の宝塔
正面右側に2代秀忠公の宝塔がある。最も小振りな宝塔だ。
というのも、、、
秀忠公の宝塔は木造の豪奢なものであったのだが、戦火により焼失。なので、この宝塔は正室「お江の方」のもの。この下に夫婦が合祀されているわけだ。
秀忠公は生涯において一人たりとも側室を持たなかったという。ここでも妻と仲良く眠っているのだろう。。。
6代家宣公の宝塔
正面左側に建つのが6代家宣公の宝塔。最も大きな宝塔がこちら。威風堂々、威圧感を覚える。
皇女和宮様の宝塔
左側の宝塔群の中ほどにある「皇女和宮様」の宝塔。こちらは青銅製である。
屋根の部分が大きく華やかで、胴と腰は華奢。女性らしい。私が最も美しいと感じた宝塔がこちらである。
なんといっても天子様のご息女であらせられる。他の正室とは格が違うと言わんばかりに華やかな気を振りまいている。
皇女和宮様こと和宮親子内親王(かずのみやちかこ ないしんのう)
任孝天皇の第八皇女で、江戸時代最後の天皇となった孝明天皇の異母妹。有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と婚約していたにもかかわらず、幕末の政策「公武合体」の象徴的な施策として利用された形で徳川家に降嫁させられた。
和宮様のご遺体を改葬のために掘り起こされた際、ご遺体とともにガラス板が見つかった。そのガラス板は、今でいうところの写真であり、直垂に鳥烏帽子という出で立ちの若い男性が写っていたという。
その男性が誰なのかの調査を翌日に行うべく、机の上に放置していたところ、たった一晩でその画像は消滅してしまったらしい。
この男性は夫であるところの徳川家茂公であるはずなのだが、万一、元彼であるところの有栖川宮熾仁親王であったならば、、、
この男性は夫であるところの徳川家茂公であるはずなのだが、万一、モトカレであるところの有栖川宮熾仁親王であったならば、、、
世紀の大発見が、世紀の大損失となってしまったわけだ。またしても言う。残念極まりない。
その他「御霊屋」の遺構
ここまで見てきたように、荘厳華麗な霊廟は戦火によって悉く灰燼に帰してしまったが、鋳抜門のように被害が最小限に留まり、往時の面影を今に残す遺構もいくつかある。
北から順にご紹介していこうと思う。
御成門
増上寺の裏門として建立された門。将軍が「御霊屋」に参詣するために使われたため「御成門」と呼ばれている。
もともとは、現在の御成門交差点にあったが、明治25年に道路拡張工事のためここに移設された。
現在は、東京プリンスホテルの駐車場横に位置する。
二天門
東京プリンスホテルの北東角に聳える「二天門」。仁王像が二体。だから二天門。
これは7代家継公の霊廟の門として建立されたもの。創建当初からこの位置にあったと思われる。
色あせてはいるものの、往時の煌びやかな意匠を彷彿とさせる。
惣門
2代将軍霊廟の惣門である。黒門と芝東照宮鳥居の間にある。
美しく修復されている。翼を広げたかのような屋根の反りがたまらない。そして朱色と黒と金のコントラストが実に美しい。
もともとは、門をくぐって真っすぐに進み階段をのぼったところに立っていたものを、道路際まで移動したとのこと。
両脇に金剛力士像が安置されている。
これは、埼玉県川口市の西福寺にあったもので、1948年に浅草寺に譲渡され、さらに1958年頃に現在の惣門に移されたと聞く。
2代秀忠公霊廟跡へ
もうすでに霊廟は跡形もなくなくなってしまっているが、絵図を頼りに霊廟があったであろう場所に向かいたい。
この階段を上ったところが本来の惣門があった場所とのこと。上がってみよう。
惣門跡
右下の地面に記された囲みが惣門跡。通路からは少し右にずれている。
ここから先50mの場所に「勅額門」があり、さらにその先に霊廟があったはずだ。
このまま、真っすぐ進もう。
この芝生公園あたりが、2代秀忠公御霊廟跡と思われる。
東京タワーの全体が見える場所。団体観光客はここまで来ないので、この景色を独り占めできるのである。
さて、2代秀忠公の奥院宝塔はいったいどのあたりだったのだろうか。
古地図で確認した。パークタワー東京だった。
最後に
御霊屋の遺構については、実は他にもある。それらは、別の場所に移築され現存している。
- 秀忠公霊廟への門「勅額門」・・・狭山不動院へ
- 秀忠公奥院への門「御成門」・・・狭山不動院へ
- 秀忠公霊廟とお江の方霊牌廟の仕切りに開けられた「丁字門」・・・狭山不動院へ
- お江の方霊牌廟への門「唐門」・・・鎌倉の建長寺へ
全部が南御霊屋のものだ。だから思うのである。
せめて南御霊屋だけでも、この芝の地に復元しなかったのか、、、残念でならない。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!
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