上野東照宮|上野公園|絢爛豪華な社殿は必見!栄誉大権現と合わせて参拝すると勝ち運アップ間違いなし!

2019年2月5日

上野東照宮は、東京都台東区上野公園に鎮座する神社である。正式な社号は「東照宮」。三柱の神が祀られているによって「三処権現」とも称された。

上野恩賜公園の西辺すなわち上野台地の西の崖線を背に、東向きに建つ社殿。

その煌びやかな装飾は、日光東照宮のそれにも勝るとも劣らない。

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上野東照宮について

上野東照宮 概要

  • 所在地   東京都台東区上野公園9−88
  • 電話番号 03-3822-3455
  • 主祭神   徳川家康公、吉宗公、慶喜公
  • 創建年      1627年
  • 社格   府社
  • 公式HP     http://www.uenotoshogu.com/

上野東照宮 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR「上野駅」徒歩10分
  • 京成「京成上野駅」徒歩5分

駐車場

  • あり(上野公園駐車場)

上野東照宮の祭神

現在の祭神は、徳川家康公、吉宗公、慶喜公の三柱。

徳川家康公(東照大権現)

徳川初代将軍。「松平広忠」と正室「於大の方」の子である。

その業績は周知のことと思うので割愛させていただく。

亡くなった翌年、朝廷より東照大権現の神名と神階正一位を受けて「神」となった。

墓所は駿河の久能山東照宮にある神廟である。

徳川吉宗公

8代将軍。紀州徳川家の出身。

質素倹約で紀州藩の財政を再建した実績もあり、将軍職に就任すると幕政のスリム化、質素倹約、増税などで、幕府の財政改善を行った。いわゆる、享保の改革である。

また、目安箱の設置によって庶民の意見を政治に反映させたり、医療改革を行ったり、大奥の縮小、武芸の奨励などなど、新しい発想で政治を行った。

墓所は寛永寺の御魂屋にある。

徳川慶喜

ご存知の通り、徳川15代将軍で、大政を奉還し江戸城を無血開城した、日本史上最後の征夷大将軍である。

水戸藩主「徳川斉昭」と正室「登美宮吉子女王」の子。

明治維新後には謹慎が解かれ、従四位から正二位そして従一位へと昇叙。公爵となり貴族院議員となる。

評価の分かれるところであるが、、、

幕末の緊迫した政治情勢の中、大規模な内乱に発展しないよう薩長軍(官軍)との正面衝突を徹底して避けた(逃げた)ことは、結果として列強の植民地化という最悪のシナリオを未然に防ぎ、日本がアジアにおける数少ない独立国として存続できたことにつながったのだと、私は思う。

そういう意味で、朝廷、薩摩、長州、徳川は、立場と手法は違えど、目指すところは同じであったと思うのである。

であれば、明治維新のMVPが西郷吉之助であるなら、裏のMVPは徳川慶喜公であったと言えよう。

そんな慶喜公の墓所は谷中墓地にある。遺言により、神式の葬儀を行い、皇室の墳墓のような「円墳」が築かれ、そこに眠っている。

上野東照宮の創建

もともと上野山は「忍岡」と呼ばれていた。そしてここに藤堂高虎の屋敷があった。

さてさて。元和2年(1616年)の」こと。危篤の家康は、天海僧正と藤堂高虎を枕元に呼び、「この三人の魂が末永く鎮まる所を作ってほしい」と遺言したという。(社伝)

家康の遺言を受けた2人は、藤堂高虎が忍岡の土地を寄進し、そこに天海僧正が東叡山寛永寺を建立することにした。

藤堂高虎の本拠地は伊賀上野。なので、忍岡は「上野」と呼ばれるようになったとか。

天海は上野に東叡山寛永寺の伽藍を、次々と建立していった。

その一つとして1627年に藤堂高虎が創建した神社「東照社」が「上野東照宮」の始まりという。

このような創建の経緯であるからして、

当初の祭神は「東照神君(家康公)」「天海僧正」「藤堂高虎公」の三柱であったとのこと

上野東照宮のご利益

上野東照宮のご利益は、徳川家康公のご神徳により、出世開運勝運向上健康長寿のご利益が頂ける。

また、後述する「栄誉大権現」「強運開祖の受験の神様」として信仰を集める。受験シーズンは学生諸君の参拝が絶えないと聞く。

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上野東照宮 参拝記録

上野公園は広い。JR上野駅から公園に入ると、とにかく動物園入り口方面に向かおう。

すると、上野動物園の入り口の左に「大鳥居」が見えるだろう。

大石鳥居

石造りの明神鳥居。この鳥居は、なんとなんと、1644年に酒井忠世が寄進したものという。

関東大震災の揺れにも耐え抜いた、頑丈極まりない鳥居である。

この強さにあやかりたいものである。とりあえず、触っておいた。

さあ、鳥居をくぐろう。

平日の朝ではあるが、なかなかの人手である。というのも「ぼたん祭」開催中だからだ。

水舎門

参道を行くと「水舎門」と称する中門がある。この水舎門は、もともとは上野東照宮の手水舎だったものを、中門に転用したもの。

これが手水門の屋根。これが手水舎だったとは、ほんに豪華なことか。

その手水舎は、1651年に老中「阿部重次」が奉納したものである。

上野戦争でも生き残った、幸運の手水門ということになろう。

水盤

これが、老中「阿部重次」が奉納した水盤。

この水盤と、現在「水舎門」として残っている手水舎がセットで、ここに設置されていたものと推察する。

では、現在の手水舎はというと、これがまた、新門辰五郎の奉納とくるから歴史ファンにはたまらないのである。

新門辰五郎

江戸末期に活躍した侠客。町火消「を組」の頭。「強気を挫き、弱気を助ける」事を旨とした渡世人である。

慶喜公や勝海舟とも懇意で、慶喜公が京都御所警固のために上洛したときは子分を引き連れて二条城の警護にあたったり、

鳥羽伏見の戦いの際、大阪から江戸に脱出した慶喜公が大阪城に残した家康公以来の金扇の旗印を取返しに行ったりと、慶喜公のために働いていたようだ。

ちなみに、辰五郎の娘は慶喜公の妾になっている。

燈篭

参道の左右に、このような銅製の灯篭がたくさん並んでいる。48基あるらしい。

全国の諸大名が奉納したもの。国の重要文化財に指定されている。

唐門

社殿の正面にある「唐門」。修復が終わり、金ピカである。外国人好みの仕様なのだろう。多くの外国人観光客が遠巻きに眺めている。

そんな中、二拝二拍手一拝を行うのは、少しく緊張するのである。

ちなみに、これは1651年の建造物で、国の重要文化財に指定されている。

さて、ここから先への進入には500円の拝観料を納める必要がある。

はっきり申し上げておこう。500円の価値は十分ある。いや、ここまで来て隙塀の中に入らない選択肢はないのである。

唐門内の様子

ご神木

拝観料を納めて中に入ると、まずは「ご神木」がお出迎え。樹齢600年。ここに東照宮が創建されるずっとずっと以前からある神木である。

隙塀の中に入る前にもう一つ。

栄誉権現社

栄誉大権社に祀られる栄誉大権現の正体は、四国八百八十狸の総帥。狸の大親分だ。

ご神体は狸の木像。

狸が上を着物を着て見上げているというポーズ。

江戸時代、大奥に奉納されたが災いを起こしたため他家に出され、安置される大名・旗本を悉く潰していった悪狸だったらしい。

ここ東照宮境内に鎮座してからは、災いを起こさなくなったという。

現在は、「お狸様」とか「夢見狸」と呼ばれ親しまれつつ、他を抜く(たぬき)狸という語呂から、強運開祖の受験の神様として信仰されているようだ。

狸親父といわれた「家康公」の分身かも。。。

さてさて、いよいよ隙塀の中に入ることにする。

拝殿

これまた、黒と金のコントラストが見事。美しすぎる。

摂津国一之宮「住吉大社」の住吉造の社殿は、そのシンプルな美しさに感動したのだが、こちらの豪華な美しさは、素直に「凄い!」と叫ぶほかない。

本殿

本殿は金だらけ。

唐門の内側

外側よりも内側の方が見ごたえがある。是非とも、500円を納めて参拝していただきたい。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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