江戸城跡|皇居|龍穴パワーを、風水・陰陽五行・神仏のご加護でさらにパワーアップさせた江戸城で元気をもらおう!

2017年6月28日

東京都千代田区千代田、かつての武蔵国豊島郡江戸に造営された、日本最大の城郭であり,徳川250年間を通して、国政の中枢を担った場所である。

明治維新後の江戸城=皇居のイメージが強いが、国会議事堂をはじめ、首相官邸・各省庁・各党本部など、今でも国家権力の集中を見る

いや、徳川時代以上に一極すなわち江戸城跡に集約されているではないか。

そういう意味で、江戸城跡全体がパワースポットと捉えてもいいと思う。

ここで言う江戸城跡とは、南は虎ノ門、西は四谷門、北は牛込門、東は東京湾という、江戸城惣構えという広大なエリアを指す。

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江戸城について

江戸城の変遷を、簡単に整理しておく。

  • 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、ここは江戸氏の拠点であった。
  • 1457年、太田資長(道灌)がこの地に城郭を築いたのを以て、江戸城の始まりする。
  • 1486年、道灌を謀殺した扇谷上杉家が江戸城を占有する。
  • 1524年、上杉家を破った北条氏の支配下に入る。
  • 1590年、北条氏が豊臣氏に敗北。徳川家康が「駿遠三甲」から「関八州」に移封され、江戸城を居城とした。
  • 1603年、江戸幕府を開幕。城郭の改築・拡大を図り、同時に運河の掘削と、その土砂による埋め立てによって、城下町を拡充していくことになる。
  • 1660年頃に江戸城天下普請は完成する。
  • 途中、1654年の明暦の大火によって、天守をはじめ多くの施設が焼失した。
  • 天守については再建が計画されたものの、城下町の復興を優先したため一時中止。それ以降、何度か再建計画が持ち上がったが、ついぞ再建されることは無く、今も残る「富士見櫓」が天守の代用とされた。
  • 1868年、明治維新。江戸城は無血開城され、「東京城」と名称が変更される。
  • その後、明治期において、「東京城」から「皇城」そして「宮城」と名を変える。やはり「城」なのだ。
  • 太平洋戦争が終戦した3年後、1948年に「皇居」と改名され今日に至る。

江戸城の立地

さて、江戸城の立地について整理してみよう。

江戸城は、武蔵台地の先端にある麹町台地の、東の先端に築かれている。

その麹町台地の先には日比谷入江が入り込んでいる。入江の向こうに砂州があったようだ。この砂州部分が、現在の日本橋・京橋・銀座

そのさらに先は東京湾であるが、対岸の下総台地との間隔は狭い。よって南関東と北関東の西部に降る雨の大半は、武蔵台地と下総台地の間に、土砂を運びながら流れていた。すなわち、水流が江戸城に集中する地形なのである。すなわち水脈。

また、麹町台地の北にある本郷台地や上野台地の先端は、「江戸城」を向いている

さらに、北は浅間山から秩父山地、南は箱根や富士山。これら東側に南北に連なる山岳地帯からの稜線の傾斜が、江戸城方向に流れているように見える。すなわち龍脈と見た。

このように自然の地形の上でも、水脈、龍脈とも江戸城は優れた立地にあることが分かる。

▼江戸城周辺の地形と龍脈・水脈の流れ(私見)

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江戸城の風水 四神相応

さて、この地形を風水的に見てみよう。

その前に抑えておくべき事柄がある。それは、風水には大きく分けて2派あるということ。

  • 巒頭派・・・実際に見える山や丘や窪み、川や池や海など、実際に目で確認できる地形から吉相を判断する手法。
  • 理気派・・・陰陽五行思想や方位など、目に見えないもので土地の吉凶を判断する手法。

では江戸周辺の地形を、2派のうちの「巒頭派」、風水地理五訣のうちの「向」を除く「竜・穴・砂・水」を当てはめてみる。

要するに、方位にとらわれずに見てみようという試みだ。

▼先ほどの画像に、さらに四訣を加えると・・・

これは、私が地形を観察しただけの「巒頭派的素人風水」なのである。鵜呑みにはしないで頂きたいのだが、、、

画像の上が西下が東となる。

祖山・主山

「祖山」を富士山とし、「主山」を高尾山とした。もしかしたら「甲武信ケ岳」かもしれない。いや、ひょとしたら榛名山かも。

いずれにしても、関東の西にそびえる山々の龍脈が高尾山もくは甲武信ケ岳から平地に降りてくるイメージである。明治神宮・新宿・新宿御苑などをクネクネと通り、四谷門から城内に流れ込む。

その龍脈が噴き出す「穴」が江戸城だ。

噴き出した「気」が風で吹き散らされないよう、左右を「白虎」と「青龍」の「砂」が守っている。複雑に入り組む台地が砂の役割を果たしていそうだ。しかも2重3重に。

砂と砂の間に川

内外の砂に沿って川が流れているのも良い。

明堂

さて「穴」の前方が「明堂」。ここに町を作るといいのだが、江戸の場合は明堂の面積が狭い

江戸時代の初期にも拘わらず埋め立て開発が活発に行われたのは、それが理由なのかもしれない。明堂の面積を増やすためだ

川もしくは沼・湖

明堂の先には「気」を貯め込む「川・沼」が必要なのだが、日比谷入江がその役割を果たしていた。

案山

「川・沼」の先も、気を逃がさないよう「案山」が必要なのだが、日本橋・京橋・銀座のラインが微妙に標高が高い。これを「案山」と見たてた

さらに俯瞰すると、対岸の下総台地を案山と見ることもできよう

また、現在では、湾岸エリアに乱立する超高層ビルやマンションが、案山の役割を果たしているように見える。

案山手前の川を作る

さて、江戸の初期に日比谷入江は埋め立てられた。「川:沼」の役割をするものをが無くなるのだ。

その対策として、佃島を作ったのではなかろうか。墨田川を江戸城前まで延長させ明堂に対さしての「川」の役割をさせるために。そして佃島が案山になるわけだ。月島も同様である。

まさに、理想的な吉相である。

そして、明治以降も、晴海、豊海などなど、埋め立てによって「明堂」を増やし続けていることが分かる。

現在でも、四神相応の都市造りは続いているのだ。

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