本住吉神社|神戸|住吉大社の元宮と称する神社のご利益は祓いと安産。

2019年3月12日

本住吉神社は兵庫県神戸市東灘区にある神社。大阪湾を見下ろす高台に鎮座する。

住吉に「本」を冠するのは、大阪の「住吉大社の元宮である」という当社の主張の現れだ。

その元宮であることの真偽の程は定かではないが、考察してみるには面白い題材であろう。

それは追々と、、、

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本住吉神社の祭神

本住吉神社 概要

  • 所在地   兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1−2
  • 電話番号  078-851-3746
  • 主祭神  住吉大神・神功大神
  • 創建年      不詳
  • 社格   県社
  • 公式HP     なし

本住吉神社 アクセス

MAP

最寄り駅

  • JR神戸線「住吉駅」すぐ

駐車場

  • あり(無料)神社境内に駐車可能

本住吉神社の祭神

主祭神は、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命・神功皇后。

配神に、天児屋根命・大山津見命を祀る。

筒之男三神(住吉三神)

伊邪那岐命が黄泉国から帰ってきたとき、身についた穢れを祓うために禊を行った。その時、流れのある海(あるいは川)の底で祓ったときに現れたのが底筒之男命。同じように、中瀬で中筒之男命、表面で表筒之男命が現れたとされる。

よって、まずもって住吉大神は祓いの神である。

筒之男三神は住吉三神あるいは住吉大神と呼ばれ、新羅征伐を勧める神託を降ろし、神功皇后によるその実行を助けたと記紀にある。

よって、航海の神であり戦の神でもあるわけだ。

神功皇后

14代仲哀天皇の皇后。前述の住吉大神からの神託に疑問を持ったため住吉大神に命を奪われた仲哀天皇に代わって、身重の体であるにもかかわらず新羅征伐を敢行した女傑。

帰還後、筑紫の宇美でその子を生む。その子が15代応神天皇となる。

このようなことから、安産の神として信仰されている。

本住吉神社の創建

神功皇后ゆかりの4社

神功皇后が新羅征伐を終えて、筑紫で応神天皇を生んだあとのこと。

その子を連れて畿内へと帰還する最中、その子に皇位を奪われたくない異母兄弟「香坂王(かぐさかのみこ)と忍熊王(おしくまにみこ)」が謀反を起した。

明石で待ち伏せして皇后と御子を亡き者にしようという魂胆だ。

二人は兎我野で狩りをして、その吉凶を占った。すると、香坂王は赤猪に喰われて死んでしまった。忍熊王は一旦明石から住吉へ退却した。

占いは凶と出たわけだ。ここでいう住吉は大阪の住吉だろうか。

さて、そのような情報を得た皇后一行は、瀬戸内海ではなく外洋を回って紀伊水道から大阪湾へと入った。しかし船がいうことをきかず難儀した。

とりあえず武庫の港に入って占ってみると、、、

天照大神が「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と告げた。そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせた。<現在の廣田神社>

また稚日女尊が「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と告げた。そこで海上五十狭茅(うながみのいさち)に祀らせた。<現在の生田神社>

また事代主命が「私を長田の国に祀りなさい。」と告げた。そこで葉山姫の妹の長姫に祀らせました。<現在の長田神社>

また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が、「吾が和魂(にぎみたま)を大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)に祀りなさい。そこで往来する船を見守ろう。」と告げた。<一般的には大阪住吉大社>

これらの神のお告げの通り神々を鎮め祀ったところ、無事に海を渡る難波津に入ることが出来たわけだが、

こちらの本住吉神社は、この時の「大津渟中倉之長峡」が当地だと主張し、これを創建としている。

住吉の真相は?

一般的には「大津渟中倉之長峡」は現在の住吉大社の場所とされているが、次の事柄から当社が「大津渟中倉之長峡」の地であることも否定できないように感ずる。

まずは、その立地から、、、

国土地理院地図より 青もしくは緑部分までが当時の海と思われる。

廣田、活田、長田は、六甲山系の麓の海岸線に並んでいるが、当社を入れると4社が等間隔で並ぶことになる。

神功皇后の占いによって祀られることになった神々が、等間隔に一直線に並ぶのは至極自然なように思う。住吉神社のみ大阪湾の反対側というのは不自然と感じる。

次に、鎮座理由から、、、

当社は高台に鎮座しており、明石海峡から上町台地までの大阪湾を一望できる立地。「往来する船を見守ろう」=「見張ろう」に相応しい鎮座地であると思う。

「大津渟中倉之長峡」の表現から、、、

まずは「大津」。武庫川から西は六甲山から流れ来る沢山の川が海に注ぎ込んでいる。すなわち多くの河口があったわけだ。しかも山と海が近いため水深が深い。いい港がたくさんあったに違いない。

「長峡」。細長い土地という意味。ここはまさに六甲山と海に挟まれた細長い土地。

これも、、、

新羅からの帰還に際して、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が「吾が荒魂は穴門の山田邑に祀れ」と告げた。これが下関の住吉神社である。

瀬戸内海の入り口と出口に、荒魂と和魂を祀る。素晴らしくバランスがいいと思うのである。

これらは私が感じたことであり反論もあろうかと思う。

私としては同時期に神戸と大阪に住吉三神が祀られていても何ら問題ないと考えるのである。

むしろ、大阪湾の防衛・大和国の防衛という観点からすると、住吉大社の立地は紀伊水道からの侵入を見張る・大和国への陸路の要を守るという重要な役割を持つだろう。

大阪湾の南北に住吉防衛軍がある方が安心なのではないだろうか。

本住吉神社のご利益

ご覧の通り、神額に明確に記されている。

住吉大神のご利益として、海上・航空・交通安全。そして浄化があげられている。

神功大神のご利益は、やはり安産と育児だ。

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本住吉神社 参拝記録

JR神戸線の住吉駅から150mという駅前立地ということもあり、初詣などには多くの参拝客で賑わうらしい。

150mとは言いながら、正面が南側なので大きく回り込むことになる。よって200mぐらいは歩くことになろう。

社頭

本住吉神社の「本」が誇らしげに見える。

鳥居は白くて新しい石造の明神鳥居。以前のものは阪神淡路大震災で倒壊したらしい。

そうか。そうだった。あの痛ましい震災から24年が過ぎたのか。。。今、こうして神戸の街を歩いていても、意識して探さない限り震災の爪痕を目にすることは無い。

しかし、その爪痕は神戸の皆さんの心の中に、クッキリと残ったままであることは想像に難くないのである。

今日は、犠牲になられた方々のご冥福を祈るとともに、被災された方々の復興への頑張りに心から敬服したいと思う。

真っすぐに伸びた内参道。両側に建つのは提灯をぶら下げるための木枠。

両側に車が並んでいる。どうやら境内は止め放題のようだ。こんなに参拝者はいないと思うのだが、、、

奇岩窓社・豊岩窓社

本殿域に入ると、左右に門の神が祀られている。

拝殿

綺麗な拝殿である。この拝殿も震災で大きく傾いたと聞く。

二拝二拍手一拝。震災で犠牲になられた方々のご冥福を祈りつつ、復興への感謝を込めて、、、

本殿

本殿を横から見た画像。本殿は一棟だが、どうやら中で4分割されているようだ。

屋根の濃い茶色と金色の飾りのコントラストが美しい本殿である。

境内社

水神宮

本殿の右手に境内社がズラリと並んでいる。

その一番左側が「水神宮」。文字通り「水を司る神」だろう。水波能女神(みつはのめのかみ)だろうか。

そうそう。この地域、すなわち西宮から灘にかけては酒蔵が非常に多いのは御存知だろう。それは酒造りに最適な伏流水「宮水」のお蔭。

この水のお蔭で、灘の酒は日本一の酒質を誇ってきたと言っても過言ではない。

実はこの宮水が震災の際に大活躍したという。

水道・電気・ガスなどの「ライフライン」が寸断されたとき、酒蔵は自らが被災していたにも関わらず地域住民に水を供給してあげたと聞く。

まさにこれが、復興に向けての第一歩だったのかもしれない。

大山祇社と猿田彦社

隣が大山祇社と猿田彦社。

大山祇神は「山の神」である。山の神として生まれたのだが、瀬戸内海の島々で祀られるように「海の神」としての性格を併せ持つようになった。

猿田彦神は「導きの神」だ。天孫瓊瓊杵尊が降臨する際、地上から迎えに上り高千穂まで道案内をしたという。赤ら顔で目も赤く鼻が高いことから、天狗のモデルになっている。鈴鹿の椿大神社の主祭神で修験道の祖ともされる。

人生において何か重大な選択を様られた時は、猿田彦神に相談してみるのがよいと思う。

塞之神と大海社

そのまた隣に塞之神と大海社が祀られている。

塞之神は「邪気を塞ぐ神」と表記されている。集落に邪気が入らないように防ぐ神で道祖神的な性格を持っている。

大海社は「海神と御子」と書かれてある。豊玉彦命と豊玉姫命をさすのだろう。

豊玉彦命は大綿津見神の亦の名で、海を司る大神である。そしてその娘が豊玉姫命。神武天皇の祖母にあたる姫である。

八社の合祀殿

こちらに8社が祀られている。左から、、、

  • 天満の神・・・学問
  • 高良神・・・長寿
  • 木花咲也姫・・・一願成就
  • 綿津見神・・・海の神
  • 天水分神・・・祈雨の神
  • 大山咋命・・・酒造の神
  • 大物主命・・・金刀比羅の神
  • 大国主命・・・国土経営の神

大日女社

案内板がとれてしまっていたため何の社かわからなかったが、調べると大日女社とのこと。であるからして天照皇大神がご祭神であろう。

この鎮座地から想像するに、天照大神の荒魂もしくは、瀬織津姫命である可能性も考えられる。

菟原稲荷社

宇迦之御魂神(倉稲魂神)であろう。菟原とは、この地域の古い地名である。

最後に

鳥居を出るとこのような風景。

特別なものは写ってないが、この正面から真っすぐに伸びる道をご覧頂きたい。横断歩道の先の路面が全く見えない。

そう。そこから向こうは下り坂なのである。結構な急坂だ。

「古代の海岸線は、この坂を降りたとこ」ってことを考えると、「大阪湾の見張り台」としての役割は十二分に果たせたと思うし、いざというときは住吉川の河口から迎撃することも可能だったと思われる。

最後までお読み頂き、ありがとうございました!

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