四天王寺 神と仏が共存!四天王寺には多くの謎が仕掛けられている?

2018年9月28日

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四天王寺 概略

大阪市天王寺区にある寺院である。このブログで寺院を紹介するのは初めてのことである。それほどに強烈な衝撃があったと、まずは申し上げておく。

さらに言うと、ここは神社でもあると確信したからでもある。

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四天王寺は、聖徳太子が建立した七大寺院のひとつとされている。またもや「七」である。

日本書紀によると、創建は593年。現在地の荒陵(あらはか・古墳跡)に建設を開始したとある。

蘇我馬子と物部守屋の戦いに、蘇我勢の一員として参戦した当時14歳の聖徳太子。
八尾市の渋川にある守屋の拠点に攻めかかるが、戦上手の守屋勢の前に三度の退却を余儀なくされる。後方部隊にいた太子はこの状況を見て、「この戦に勝利した暁には、四天王を祭る寺院を建立しよう。よって我らに御仏の守護を!」と、手彫りの四天王に祈願する。
そうすると、一本の矢が木の上にいた守屋に命中。これによって、蘇我氏の勝利となった。太子は約束の通りに、難波の荒陵(あらはか)に、四天王寺を建立することとした。

しかし、実はその6年前、玉造にあった「守屋の邸宅」跡に御堂が建立されたのが始まりという説があり、その邸宅跡に鵲杜宮(かささぎもりのみや)が鎮座している。「元四天王寺」である。また、玉造稲荷神社も「元四天王寺」を主張している。(現在の森の宮も玉造も、かつては玉造と呼ばれていた。)

どちらが元四天王寺かは判明していないが、どちらの「元四天王寺」も神社であることは、実に興味深い。今回の参拝の目的はそこにあるのである。「四天王寺と神社」がテーマなのである。

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四天王寺 参拝記録

大鳥居と西門(極楽門)

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堀越神社を後にして、四天王寺に向かう。大鳥居が見えてくる。その奥には西門(極楽門)。寺院なのに鳥居である。西向きである。記録によると創建当初は木製の鳥居だったとのこと。創建当時から鳥居があったのである。実に興味深い。

四天王寺の伽藍は広大で、多くの施設が立ち並んでいるため、一つ一つ紹介はできない。私が興味をもった施設のみ紹介することにする。

おすすめ! 阿弥陀堂

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なぜか、魅かれた阿弥陀堂。上がらせてもらって、真言を唱え、しばし黙禱を捧げる。体が浮き上がるような感覚がある。心地よい。是非訪れていただきたいスポットである。

神社パワースポットの巡礼をはじめてから、このような体の変化というのかシグナルというのか、五感へのアプローチに敏感になったようだ。そして、驚くこともなくなってきた。

熊野本宮によると、阿弥陀仏は須佐之男尊の本地仏である。

いつまでも座っていたいのだが、先に進もう。

熊野権現礼拝石

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熊野三山への遥拝所である。四天王寺の南大門と仁王門の間にある。熊野信仰は平安時代に盛んにおこなわれるようになったので、創建当時、熊野三山はもちろん存在したが、この遥拝石があったかどうかは定かではない。

ちなみに、熊野三山の本宮の主祭神は須佐之男尊である

伊勢神宮遥拝石

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伊勢神宮への遥拝所である。東門の内側にある。こちらはもっと新しく、おそらく明治に入ってから設置されたのではないだろうか。江戸時代の絵図には存在しないのである。

ちなみに、伊勢神宮の内宮、天照大神は太陽神(男神)であり、それは須佐之男尊であるという説がある。

牛王社尊

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ちょうど中心伽藍の北西に位置する、鬼門を守るお堂である。

四天王寺造営の際に資材を運んでいた牛が、伽藍の完成とともに石神となった。その巨石が地中に埋まっているらしい。祠の中には牛の石像が安置されている。牛頭天王を祀っているとも言われているが、牛頭天王とは須佐之男尊でもある。

創建当初から、四天王寺の中心伽藍の鬼門に「須佐之男尊」が祀られていたということである。これは非常に興味深い。

おすすめ! 癒しのパワースポット 聖霊院太子殿

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中央伽藍の東隣に、聖徳太子を祀る「聖霊院太子殿」がある。四天王寺の多くの施設は朱塗りであるが、こちらは朱塗りのコンクリート造りではなく木造である。前殿と奥殿に別れており、常時参詣できるのは前殿のみである。奥殿は法隆寺の夢殿に似ている。

前殿に上がらせて頂く。格子の向こう側のさらに奥、太子像であろうか、暗闇の中に立像のシルエットだけが目に映える。香り豊かな線香が焚かれている。妙に素直な気持ちになっていく。

しばし黙禱。心の中で般若心経を唱える。すばらしく安らぐ。これこそが、「癒し」なのだろう。このまま眠りに落ちていきたい衝動に駆られながら、黙禱を終えて目を開くと、目の前に別世界が広がるのである。

先ほどまでの暗闇が嘘のように明るく輝いているではないか。目を疑って、係りの方に明りをつけたか確認をしたぐらいである。まぁ、冷静に考えると、目を閉じていたので視覚が暗さに慣れただけの話なのだが、あたかも霊力によるものであるかのような錯覚に陥るほど、神秘的な空間であった。

この時思うのである。むしろ感じると言ったほうがいいだろうか。この太子殿こそが四天王寺の真髄であると。

ところが、この後、もっと衝撃的なものを発見することになろうとは。。。(いや、実は知っていたんですぅ)

守屋の祠

太子殿の奥殿の東隣に、朱塗りの祠がひっそりと隠れるように鎮座されている。太子殿の敷地の中に奥殿の隣に神社である。特別に扱われているように思われるのである。あとで気が付くのだが、この場所は奥殿の隣(となり)ではなく奥殿のさらに奥(おく)なのだ。

IMG_20160620_104833そう、これが「守屋の祠」である。祭神は、物部守屋大連、弓削小連、中臣勝海連。弓削小連は、守屋の子であろう。中臣勝海連は鎌足の子。中臣氏は物部氏と同じく神道を奉じる氏族である。守屋の挙兵に呼応して、蘇我氏を呪う呪詛を行ったが、守屋死すの報を受けて降参。しかし殺されてしまった。

凄まじい怨念を持っているはずの守屋を自らの懐に祠を設けて祀っているのは何故か。

四天王寺を参拝して思うこと

四天王寺は、もちろん仏教施設なのだが、大鳥居・鬼門の牛王尊・伊勢と熊野の遥拝所、そして「守屋の祠」など、神社的の要素も多く存在する。たしかに神仏習合により神社に仏像が安置されていた事例は多い。あるいは神社の境内に神宮寺を建立するのは当然のことであった。寺院に鳥居があるなんてことも、よくあることでもあろう。

しかし、以下のように、混然一体となった事例は珍しいのではなかろうか。

まずは、伽藍の配置を確認する。
四天王寺の正門は、西門(極楽門)と南大門のどちらがふさわしいか。

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寺院としては、南であろう。南大門、中門(仁王門)、塔、金堂、講堂の順に南北一列にならぶ「四天王寺伽藍」と言わる様式だ。

しかし、画像を横から見ると、西門(極楽門)も正門のように見えないだろうか。

さらに、重要施設をつなげてみると、、、

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大鳥居 ⇒ 極楽門 ⇒ 西重門 ⇒ 東重門 ⇒ 猫門 ⇒ 太子殿奥殿 ⇒ 守屋の祠が、一直線に並ぶのである。(赤のライン)そして東重門、猫門、奥殿、守屋の祠は、通常は閉じられている。

これは、「一の鳥居、二の鳥居、拝殿、内玉垣門、本殿、奥宮と並び、内玉垣門から以降の施設の扉は閉じられている」という神社の構造に極めて似ていると思うのである。

そう考えると、守屋の祠が奥宮に相当するのである。冒頭に、「守屋の祠」は、奥の奥と申し上げたのは、このことである。

ちなみに、南北・東西・鬼門の3つのラインが交差する地点(印)には、「転法輪石」が存在する。これが何を意味するのかは分からないが。

四天王寺は、寺院と神社の二重構造

このようにしてみると、四天王寺は寺院と神社の二重構造であることがわかる。だとするならば、何故、二重構造にしたのだろうか。

聖徳太子の本意は、神道と仏教の共存共栄にあったのではないだろうか。

偽書の烙印を押された「聖徳太子五憲法」に記されている十七条憲法には、「篤く三法を敬うべし。三法とは、儒・仏・神なり」とある。

日本書紀に記されている「篤く三宝を敬うべし。三宝とは、仏、法、僧なり」は、誤りであるという説も、あながち間違っていないと感じるのは私だけであろうか。

少なくとも、聖徳太子は、四天王寺あるいは国家権力を物部守屋の怨霊から守るために、仏ではなく神の力を選択したのある。しかも、七つの神社で囲むという鉄壁の守りである。

ここで、ふと思い出したのだが、七宮の祭神に須佐之男尊が多かったような気が。。。四天王寺境内にも、須佐之男尊を連想させるものが多数あったが、、、

この「四天王寺と七宮の関係」については、追って記事にするが、それを紐解いていく中で明らかになる事実は、神道と仏教の共存共栄などという悠長なものではないのである、、、

 

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